国鉄キハ08系(旧キハ40系)

 昭和28年キハ45000系(後のキハ10系)は国鉄液体式気動車として、非電化路線の「動力近代化」、「無煙化」の旗手として、勢力を拡大していきました。しかし、全国に新製気動車を配置する要望はあるものの、新製が追いつかない事態となっていました。
 不足する気動車を補うために、客車を増結して対応する路線も出てきました。このような対応は、気動車のメリット(編成や折返しなど)を損ねる結果を招いてしまいました。さらに、客車を連結して勾配区間に挑む路線もあり、気動車の性能から到底無理な事であり、貨物用蒸気機関車を用いる事になりました。これは無煙化の妨げになるものです。
 このような事態を打開するために、余剰となっていた客車にエンジンを搭載し気動車化させるという奇抜なアイデアが生まれました。様々な客車のうち、選ばれたのは木造客車を鋼体化させたオハ61系でした。
 当初はバスやトラックのエンジンを採用しようとしましたが、当時の標準であるDMH17系ディーゼルエンジンを1基搭載する事になりました。
 登場した形式はオハ62形式を改造した両運転台構造のキハ40形式3両、オハフ62形式を改造した片運転台構造のキハ45形式5両、オハフ61形式を改造した片運転台構造で、エンジンを持たない制御車キクハ45形式3両、オハ62形式を改造した運転台もエンジンも搭載しないキサハ45形式の4形式になります。昭和41年にキハ40形式はキハ08形式、キハ45形式はキハ09形式に改称されています。
 特に気動車不足であった北海道では活躍が期待されましたが、そもそも客車は牽引されるため、強度を重視した設計。軽量化とは無縁に近いもの。その車体に非力なエンジン…。在来の気動車との加速や登坂能力など走行性能に差が出ました。車内も客車時代と変わらず、アコモ面でも見劣りあるものでした。
 結局、運用面で制約を受ける事となり、性能で余裕のある気動車との併結運用で力不足を補うことになりました。エンジンの搭載していない、キクハ45形式やキサハ45形式はさらに扱いにくい存在となり、キサハ45形式は僅か3年で廃形式となりました。
 北海道の他、山形、徳島地区に配置され活躍しましたが、試作車の域を出る事が出来ず、失敗に終わり昭和41年に廃車となりました。その廃車となったうちの1両であるキハ08 3は幸運にも京都府に路線を持っていた加悦鉄道に譲渡され活躍。現在は「加悦SL広場」に静態保存されています。(写真)

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JR西日本キハ33形式一般形気動車

 旧型客車を気動車化させる改造は失敗に終わり、その後そのような計画も無く時は流れ、約20年。国鉄もJRへ移行し新しい時代の幕開けとなり、JR各社では経営改善に勤しんでいました。その中、JR西日本米子支社で客車を気動車化して、経営改善を図ろうというアイデアが生まれました。
 種車に選ばれたのは50系客車。登場からあまり年数が経っていないにもかかわらず、客車列車の電車列車化や気動車列車化が進み余剰、廃車を待っていたのです。この客車を用いれば、新製よりも低コストで気動車が増備できるのではないかという目的がありました。
 50系客車のオハ50形式(中間車)が選ばれ、改造が行われました。両端にある乗降扉のうち、乗務員室(運転室)になる部分の乗降扉は後方へ移設。その他の側面窓はそのままとしています。前面貫通扉は引戸から折戸に変更し、列車の先頭に立てるように前部標識灯(ヘッドライト)、後部標識灯(テールライト)、汽笛などが装備されました。
 エンジンは国鉄分割民営化直前に登場したキハ31形式やキハ54形式などで使われたDMF13HS(250PS/1900rpm)を1基搭載しました。客車の重量により、やや出力の弱いエンジンとなっています。また、ブレーキ装置や台車などもこれに倣っており、廃車発生品を多用しました。
 車内はワンマン運転にするため、デッキは撤去され仕切りはありません。座席はロングシート部を増やしましたが、クロスシートも残しました。トイレはありません。サービス機器として、駆動用サブエンジン方式のAU34形式冷房装置を搭載しました。
 車号はトイレ無しという事で、同じ地域で活躍するキハ47形式1000番代(トイレ無し)にそろえる形で1000番代となり、0番代はトイレ付のために用意されました。
 実際、改造をしてみると予想以上にコストがかかってしまう事が判明。コスト低減の効果が低いとみなされてしまったのでしょう。結局2両改造して終了してしまいました。
 山陰本線などでトイレのある車輛に連結されて活躍していましたが、平成22年に廃形式となりました。
 なお、同社では平成4年に氷見線、城端線のラッシュ対応のため、スハフ12形式を気動車化し、中間付随車としたキサハ34形式(写真有りません。ごめんなさい。)が登場。応急処置的存在であり、平成7年には廃形式となっています。

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キハ33 1002(マワ車所蔵

JR北海道キハ141系一般形気動車

 札幌圏周辺の人口増加が進み、このうち札沼線の輸送力増強を目的とした系列で平成2年に登場しました。この系列も客車の気動車化とするもので、50系51形を種車としました。
 客車の気動車化はかつて数度行われましたが、車体構造の違いから成功した例は少なく、このキハ141系では軽量客車を種車とし、新世代の高性能エンジンを組み合わせることでこれを克服し、大きな成果をもたらしました。数少ない成功例で、4形式44両が改造されるという、客車の気動車への改造例としては最多となりました。客車の無くなった現在では、もう塗り替えられる事のない記録となりそうです。
 成功のカギとなったのは、改造内容です。これまでの例では、乗降扉を移設するなど低コストを目指すも、大規模な工事になりがちでしたが、キハ141系は乗降扉は移設せず、種車のものをそのまま流用。車掌室を運転台に改造しました。前面はキハ54形式に似た感じに仕上がっていますが、側面は1段上昇式二重窓のままで、客車時代の面影が強く残っています。
 現在は札沼線が電化され、キハ143形式は室蘭地区に移動し活躍。一部はJR東日本へ移籍して活躍をしています。

キハ141-1~14(キハ141-11)

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平成2年にオハフ51形式を改造し、登場した形式です。1番は先行試作車です。DMF13HS(250PS/2000rpm)1基を搭載しています。ブレーキ装置、台車などはキハ56系からの廃車発生品を流用しています。現在は廃車又は海外へ譲渡されています。

キハ142-1~14・201(キハ142-8:マワ車所蔵)

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キハ141形式とペアを組む形式で、DMF13HSを2基搭載しています。改造内容はキハ141形式と同じです。201番は平成7年にオハフ51形式から改造されたもので、キハ143形式と併結した際に、半自動扱い指令を出せるようにしたものです。外観は同じ非冷房車となっています。。(運転台はキハ143系に準じています。)この形式も現在は廃車又は海外へ譲渡されています。写真は旧塗装色です。

キハ142-114(キハ142-114)

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平成7年にキハ142-14に対し、半自動指令機能を追加したもので、1両のみ実施され原番号に100番を足しています。

キハ143-101~104(キハ143-101)

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札沼線増発に伴いキハ143系が増備される事になりました。この際、キハ150形式の駆動システムも用いて性能向上を図った形式です。N-DMF13HZD(450PS/2000rpm)1基を搭載しています。台車もボルスタレス式空気ばね台車、2軸駆動となるN-DT150A、N-TR150A形式を履いています。
混雑時のスムーズな乗降を行うため、デッキを廃止。この代わりに半自動扉として、操作をボタン式にしました。また、当初は非冷房でしたが、N-AU26形式冷房装置が搭載され冷房化されています。100番代は、オハフ51形式を改造したトイレなしの車輛です。

キハ143-151~157(キハ143-154)

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キハ143-101~とペアとなるグループです。オハフ51形式を改造したトイレ付のグループです。

キサハ144-101~104(キサハ144-103)

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オハフ51形式を改造した中間付随気動車です。前後にキハ143形式を連結して運用されていました。座席の3列化、乗降扉付近の座席の撤去、発電装置の撤去、トイレの撤去などの改造が行われています。当初はトイレ付の区分として150番代(キサハ144ー151、1両のみ)がありましたが、トイレを撤去したため、本グループの104番に編入しています。札沼線電化に伴い役目を終えたため、現在は廃形式となっています。

JR東日本キハ141系700番代 SL銀河

 東日本大震災により東北地方を観光面から支援し、地域の活性化を目的として釜石線で運行される「SL銀河」用の客車(ジョイフルトレイン)で、平成26年に登場しました。
 もともと、釜石線では平成元年よりD51 498と12系客車を使用し、平成元年から「ロマン銀河鉄道SL」(平成7年以降はSL銀河ドリーム号)が年に数日運転され、釜石線の名所である宮守川橋梁(宮守~柏木平駅間)などでは多くの人々で賑わいました。しかし、年を重ねるごとにファンや観光客のマナーが悪化したため、平成16年の運行を最後に運行を取りやめてしまいました。
 平成24年、岩手デスティネーションキャンペーンの目玉として、また震災復興を目指すために釜石線に再び蒸気機関車を運転させる企画が立ち上がりました。

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まず、蒸気機関車は岩手県盛岡市内にある交通公園にて展示保存されていたC58形239号機を動態復元させる事に始まりました。
釜石線では上りの陸中大橋駅から足ヶ瀬駅までにある仙人峠において、長大なトンネルがあり乗務員が窒息する恐れがある事、蒸気機関車のみでは力不足である事が考えられるため、対応が必要でした。以前の運転では補助機関車(DE10形)を連結していました。SL銀河では機関車ではなく、動力を持った客車、すなわち気動車を採用し、勾配区間において補助を行うという、前例のない手法が考えられました。
その客車(気動車)がキハ141系700番代です。JR北海道で50系51形客車を改造した気動車で、札沼線の電化開業により余剰となった車輛をJR東日本が購入し、再改造しました。
内外装は岩手県を代表する詩人、童話作家の宮沢賢治。彼の童話「銀河鉄道の夜」と「東北の文化・自然・風景を通してイマジネーションの旅」をコンセプトに車輛の改造が行われました。車体色は青系ですが、これは銀河鉄道の夜をイメージし、夜が明け、朝へと変わりゆく空を表現したもので、1号車が明るい青色で、徐々に暗くなり4号車は濃紺色となっています。車内は宮沢賢治の生きた大正、昭和の世界観をイメージしたものとし、ガス灯風ランプ、ステンドグラス風飾り照明、南部鉄器風の荷棚を採用し、星座を意識したパーテーションで仕切られています。
運転は花巻駅~釜石駅間で、2日で1往復する内容(1日で片道のみ運行)となっています。車輛は機関車、客車共に盛岡車両センター所属で、花巻駅までは回送運転となっています。花巻駅の構造(釜石線は駅の北側で分岐しています。)、転車台がない事もあり、蒸気機関車は最後尾に連結させ、客車側で制御して運転する独特の方法が採られています。
キハ142-701(キハ142-701)

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花巻方に位置する1号車。キハ142形式200番代(キハ142-201)を改造したものです。運転台廻りではJR東日本の保安装置各種の装備や機器の設置が行われたほか、蒸気機関車連結時にはブレーキ操作を行わないことから、ブレーキ弁ハンドルを抜き取り、力行回路のみ操作が出来る(機関車より無線連絡を行う)ように改造しました。
外装のシンボルは「さそり座」。小型プラネタリウムを用いた天体ルームの設備があります。
キサハ144-702(キサハ144-702)

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2号車の車輛です。キサハ144形式100番代(キサハ144-103)を改造しました。外装のシンボルは「いて座」。トイレの設備のほか、車端部をフリースペースとし「銀河鉄道の夜」などに関連する資料が展示されています。
キサハ144-701(キサハ144-701)

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3号車の車輛です。キサハ144-702と同じく、キサハ144-101を改造しました。外装のシンボルは「わし座」。トイレの設備はなく、座席のみが配置されています。車端部はフリースペースで、イーハトーブ(※)と宮沢賢治に関係する資料が展示されています。
イーハトーブ…宮沢賢治による造語。彼の心象世界中にある理想郷を指す言葉。
キハ143-701(キハ143-701)

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盛岡・釜石方に位置する4号車。キハ143形式150番代(キハ143-155)を改造しました。外装のシンボルは「はくちょう座」。キハ142-701と同じ運転関連の改造が施されています。オープンスペース車で、車椅子対応バリアフリートイレ、売店、ラウンジが設置されています。車端部はフリースペースで、沿線ゆかりの作品が展示されています。