900番代・0番代(第1次量産車グループ)
本系列の基本グループです。昭和38年から昭和59年までの長期にわたって製造されており、形態はバラエティーに富んでいます。当絵本では年代ごとに主だったものを紹介しましょう。
まずは900番代・0番代。昭和38年に試作車として、クハ103+モハ102+モハ103+クハ103の4両編成2本が制作されました。翌、昭和39年に量産車が誕生しました。首都圏を中心に活躍の場が徐々に広がっていきます。
クハ103ー901~(クハ103-901)
昭和38年に登場した試作車編成の制御車です。101系では電気配線の関係で、制御車は連結する方向で偶数向き、奇数向きとしていました。これ片渡り構造と言いますが、103系では両渡り構造としました。これにより連結する方向はどちらでも対応できるようになっています。運転台下部にジャンパ栓受けが設置され、奇数向きの場合はジャンパ栓があり、偶数向きの場合は受けだけとなっています。写真は受けのみなので、偶数向きとして使用しています。昭和42年に量産車化改造を受けています。羽村工場長様撮影。
0番代(京浜東北線投入車グループ)
京浜東北線に103系10両編成が投入される事が決まりました。この際、所属となる車両基地において検査をする際に分割を行う必要があるため、新しい形式であるクモハ103形式が登場しました。
0番代(フラット対策車グループ)
車輛の減速時、つまりブレーキをかけている時ですが、不随車は制輪子を車輪に押し当てて減速を行います。(電動車は電動機(モーター)を使い、ある程度速度が落ちると制輪子を用いて、車輪に押し当てて減速します。)
この減速方法は雨天や降雪時になると制輪子が当たった際に車輪をロックし、滑り出す現象を起こします。皆さんが電車に乗っていて、ブレーキがかかった後に前後方向に動揺があった経験があるでしょうか?この現象を滑走(かっそう)と言い、長く続くと車輪や線路を傷つけてしまいます。車輪は削られ、その部分が平らになってしまいます。この傷をフラットと言い、タンタンタン…と大きな音を発生させ、乗心地が悪くなります。フラットが大きくなると脱線事故の原因ともなります。このフラット対策のために、制輪子を用いた踏面式からディスクブレーキ式に変更したのが本グループで昭和42年に登場しました。以降、つくられた不随車は全てディスクブレーキ式となります。
0番代(冷房試作車)
昭和40年代に入り、私鉄各社ではサービス向上を目的に冷房車の導入が進みました。一方、国鉄は冷房装置は特急形車輛の標準装備とする。と定めており、通勤形電車などには扇風機を使用し、暑ければ窓を開ける事で対応していました。
昭和45年にサービス向上を図るため通勤形電車にも採用する事が決まり、各種要素を盛り込んだ冷房装置を搭載した103系10両編成1本が登場しました。冷房装置は製作企業の集中式のものを搭載し、電源となる電動発電機をクハ103形式に搭載しました。車体は従来車と同じ大型白熱灯1灯、側面行先表示器もないものですが、客室窓は製作に手間のかかる固定窓から、外羽目式の取付けが容易なユニットサッシ窓が採用され、外観に僅かな変化が見られました。このユニットサッシ窓は以降の車輛に採用され、他の系列にも採用されました。
冷房装置の試験結果から冷房装置の標準装備化が決まり、以降の103系は冷房装置付きとなります。
0番代(第2次量産車グループ)
関西地区の国電を新性能電車に置き換えられる事となり、昭和47年に登場したグループです。冷房試作車を除いた在来車と同じ非冷房車でしたが、冷房試作車で採用されたユニットサッシ窓としたほか、前部標識灯(前照灯)が白熱灯からシールドビームに変更され、灯具の形状が変更され、外観の様子に変化が出ています。
0番代(第2次量産車冷房搭載グループ)
冷房試作車の良好な結果を受け、昭和48年に登場したグループです。丸いグローブ型ベンチレーターが並ぶ外観から大きく変化し、中央にAU75型冷房装置が搭載され一変しています。車体は前年に関西地区に登場したグループと同じですが、冷房装置の他に側面に行先表示器が装備され、サービス向上が図られています。
最初に中央快速線の「特別快速」専用の運用を行い、山手線での活躍を経て、関西地区に転属して活躍をしています。
0番代(京浜東北線非冷房車編成対応グループ)
冷房車が登場し、103系も新しい時代を迎え、活躍線区も増えていきました。初期に103系を投入していた路線である京浜東北線では、列車増発に伴い編成が増強されることに。その増強される編成が非冷房車であったため、非冷房車で登場する事になった103系の中でも異色のグループです。
0番代(第3次量産車(ATC車)グループ)
首都圏における通勤・通学輸送は経済の発展に伴い、日増しに激しさを増していました。保安装置にATS(自動列車停止装置)を駆使し、列車本数増発、線路の改良などで対応していました。しかし、輸送力は限界に達しつつあり、これを打破するためにより保安度の高い、東海道新幹線で採用されたATC(自動列車制御装置)の導入を行う事になり、103系のみで運行されている山手線、京浜東北線が選ばれ、ATC装置を搭載した103系がつくられる事になり、昭和49年に登場しました。
制御車のクハ103形式は2度目のマイナーチェンジとなりますが、そのスタイルは大きく変わり、当初は105系という別系列にする予定でした。しかし、当時の国鉄の諸事情により103系としてつくられています。
0番代(第3次量産車(非ATC車)グループ)
ATSを採用している線区向けに昭和54年に登場したグループです。運転台後方にあったATC機器室は客室となっています。これにより仕切り窓が復活しています。制御車のみ制作され、このグループをもってクハ103形式の製造は終了しています。
0番代(第3次量産車(最終増備車)グループ)
103系が脈々と製造が続けられる中、昭和54年に次世代通勤形電車201系が登場し、同年に登場した非ATC車が最終増備車と思われていました。実際にその翌年、翌々年と増備もありません。昭和58年に山手線、赤羽線列車増発に伴い、103系のユニットが新製され登場し、ファンを驚かせました。塗り屋根、黒色のHゴムを採用するなどスタイリッシュなグループとなっています。このグループをもって、103系の新製車は全て終了しました。
0番代(改造車)
0番代を種車として、使用線区の実情に合わせた改造車も数多く登場しました。
クハ103-2551~(クハ103-2551)
関西本線の列車増発に伴い不足する先頭車を用意するため、国鉄時代に101系に簡易な改造を施し、編入した2000番代(クハ100形式改造)、2050番代(クハ101形式改造)が誕生しました。JR西日本発足後も続けられ、本番代はモハ103形式を先頭車化したものです。モハ102形式を先頭車化改造した車輛もあり、2500番代としていました。
910番代(超多段制御試験車)
抵抗制御方式を採用している電車の仕組みは電動機(モーター)に加える電流値を抵抗器の組み合わせで回転数を制御します。電車が動き出す時が最も大きな力を必要とし、徐々に小さな力で動くようになります。減速時は逆で、高速域では大きい力を必要とし、徐々に弱めていきます。抵抗器の組合せでは、この力の変化がある際に衝動が発生するほか、降雨や降雪時には空転や滑走という現象が起こり、乗心地が悪くなるなどの問題が起きてしまいます。
空転や滑走、動揺を抑える方法として、抵抗器を増やす。つまり、抵抗器の組合せる回路を増やす方法があります。しかし、床下スペースが限られる鉄道車輛では得策ではありません。そこで、「低効率を変更する」という方法を用います。簡単に言えば、抵抗できる組合せを多くする。というもので、重い貨物や荷物を牽引する機関車ではバーニア制御と言われ、実用化されていました。
これを電車でも試みてみよう、という事で超多段制御器を搭載した910番代が昭和42年に登場しました。試験の結果、高価でメンテナンスに手間がかかる事から地下鉄仕様車の1000番代、1200番代に採用されるに留まりました。
1000番代(地下鉄仕様車)
常磐線複々線電化完成に合わせて昭和45年に登場したグループで、常磐線と帝都高速度交通営団(通称営団、現東京メトロ)千代田線と相互乗入れを行いました。103系を地下鉄適合車とするため、A-A基準(車輛の不燃化、難燃化対策の基準。現在は廃止)を満たす仕様となっており、座席や貫通幌の難燃化や制御車前面には非常用貫通扉が設置されました。保安装置は地下鉄線内用のATC4形(地上信号式)を搭載しています。編成は地下鉄線内の勾配区間に対応するため、8M2Tの強力な組成となっています。車体色は灰色9号をベースに青緑1号の帯を巻いたものとなっています。
長らく活躍しましたが、非冷房、抵抗器の排熱、トンネル区間内の騒音など利用者には評判が悪く、昭和61年に常磐快速線に転用されています。また、多くの車輛が105系の種車となっています。
1200番代(地下鉄仕様車)
1000番代と同じ昭和45年に登場したグループで、営団地下鉄東西線との相互乗入れ用としてつくられました。東西線には301系が登場していましたが、高価な車輛であったため、増備に103系が選ばれました。
性能や構造は1000番代と同じですが、保安装置や編成が異なります。塗装色は灰色8号をベースに黄色5号の帯を巻いています。(205系投入後は帯色を青22号に変更)
1500番代(地下鉄仕様車)
昭和58年に筑肥線電化開業が行われ、同時に福岡市営地下鉄との相互乗入れを実施する事になりました。九州地区の国鉄路線では初めてとなる直流電化開業となります。新製車輛を投入するにあたり、当時の最新鋭であった201系と同じ、チョッパ制御方式、回生ブレーキを使用した省エネ電車が考えられましたが、列車密度の関係から効果が期待できないため、103系を投入する事になり本番代が登場しました。
在来の地下鉄仕様車とは異なり、基本構造は103系としつつ、車体構造を201系に準じた設計としているのが特徴で、前面は105系に似た顔つきとなっています。
クハ103-1501~(クハ103-1515)
本番代の制御車です。車内は201系に準じたもので、暖色系の袖仕切りのあるモケット、平天井でラインフロー式の冷風吹出し口となっています。また、扇風機と戸袋窓が廃止されています。スカートやトイレの設置は後年に行われたものです。
3000番代
昭和60年、赤羽駅から大宮駅まで路線が延伸され、赤羽線は埼京線という名称になりました。この埼京線と同時に大宮駅と高麗川駅を結ぶ川越線が電化開業しました。この川越線川越~高麗川駅間については旅客需要から3両編成程度で賄え、投資効果を考えると新製車輛は当時の台所事情もあり難しい。
103系を投入したい所でしたが、当時は余剰車もありませんでした。その頃、仙石線で役目を終えたモハ72系970番代という103系に瓜二つな電車が廃車を待っていました。この車輛は旧型国電主力の仙石線のイメージアップを図るため、103系ATC車に準じた新製車体と台枠以下をモハ72系の部品を組合わせたもので、昭和49年に登場しました。編成はクハ79形式600番代+モハ72形式970番代×2+クハ79形式600番代の4両編成で、5編成登場しました。
車体の経年が浅く、必要な編成数を確保できる事から、旧性能電車の新性能電車化という前代未聞の改造が行われ、この3000番代が登場しました。改造は台車、主電動機など電装品を中心に103系(一部、101系)のものに交換する事が主で、一部にはモハ72系時代のものが流用されていました。
JR東日本の103系
国鉄より大量に継承した103系。JR東日本へ移行し、新しい時代になっても103系は様々なバリエーションが誕生しています。ここでは、JR東日本に所属していた103系の新しい番代などを紹介しましょう。
3500番代
東京都では最後の非電化区間を持つ八高線。平成8年に八王子~高麗川駅間が電化開業しました。電化に合わせて、川越線との相互乗入れが実施される事になりました。(非電化時代には東飯能駅まで乗入れていた事があります。)車輛は川越線で活躍していた103系3000番代に209系3000番代4両編成4本と103系0番代4両編成1本が加わりました。
この0番代編成は改造されていないため、半自動機能がありません。このため長時間停車のあるこの路線ではサービス低下となる事から、半自動機能を装備した本番代が登場しました。
平成元年に延命工事が始まりました。首都圏で見られる工事ではなく、独特なもので、主な改造内容は下記の通りです。
①列車番号表示器を列車種別(愛称)表示器に交換。
②運転台前面ガラスを3分割から2分割化。(ATC車は未施工)
③客室窓のユニットサッシ窓に変更。(下段固定、上段下降式)
④車内のアコモ改良。
⑤車体塗装色の変更。
⑥扇風機、ベンチレーターの撤去(平成12年より。)
写真左が延命工事で行われた塗装色です。国鉄試験色のようなデザインが特徴です。平成10年に再度、写真右のように塗装デザインが変更されています。白色をベースにコバルトブルーを配し、ロゴマークが付きました。
仙石線の103系は平成16年まで運行が行われ、後任の205系3100番代に譲る事になりました。
引退してしまった103系ですが、平成18年以降に多賀城駅付近の立体交差化工事が行われる際に車輛が不足する事が考えられるため、廃車待ちのRT235編成が復活する事になりました。この編成は従来車にない特徴がありました。
冷房化改造・踏切事故対策
冷房化改造
国鉄より103系をはじめ、113系、115系など多くの電車を引き継いだJR東日本。これら車輛の多くに非冷房車がありました。国鉄時代よりサービス向上を図る目的で冷房化改造工事が実施されてきましたが、非冷房車の補助電源装置である電動発電機の容量は10kvAや20kvAと容量が小さく、冷房装置を動かすため160kvA以上の大容量の電動発電機に交換する必要があります。また、集中式の大型冷房装置を屋根に載せるため、屋根の補強など工事が必要でした。
そこでJR東日本では、大規模な工事を必要とせず、短期間で冷房化改造工事を行えるようにAU712型冷房装置を開発。冷房電源を直流1500Vからインバーター装置を介して得る方法としました。(大容量の電動発電機を搭載又は他車が搭載している場合はインバーター装置は不要。)
この冷房装置は容量が小さく、車輛自体も老朽化が進んでいたため、現在ではほとんど見る機会が無くなっています。
踏切事故対策
平成4年、成田線久住~滑河駅間の踏切にて、遮断機が下りていた踏切にダンプカーが進入し、その側面に普通列車(113系)が衝突。列車は前面が大きく潰れ、運転士が死亡、多数の乗客が負傷するという痛ましい事故が起きました。被災した113系の運転台は踏切事故対策が行われておらず、同種の113系をはじめ、115系、103系などに運転台廻りを強化する踏切事故対策が行われました。また、この事故以降に登場する車輛には踏切事故対策が盛り込まれ、サバイバルゾーンとクラッシュブルゾーンの設置、乗務員救出を容易にする構造とするなど対策が盛り込まれました。
冷房化改造工事の例その1(サハ103-3005)
車輛に備わる電動発電機が低出力の編成では、各車輌にCS24インバーター装置(写真手前の小さなもの)がセットされています。このインバーター装置はパンタグラフ付きの車輛では重量バランスの関係でしょうか、内側にセットされています。ここに直流1500Vを引き込み、変圧の上AU712型冷房装置に給電します。初期の車輛で組成された編成に多く見られ、現在では見る事の出来ないスタイル。103系の他にも113系、115系などでも採用されていますので、そちらも見てみよう。
ATS-P型保安装置搭載車
JR東日本では昭和63年に発生した東中野駅列車衝突事故をきっかけにATS-P型保安装置の導入を各路線に広めていきました。この保安装置を搭載するにあたり、クモハ103形式では床下スペースがなく、車上にもスペースがありませんでした。このため、運行番号表示器を機器室として、運転台窓に運行番号を表示する方法を採用しました。改造を受けたクモハ103形式は幾つかの形態が生まれました。
自動分併装置(電気連結器)装備車
分割・併合運用では係員が対応しますが、床下作業であり危険が伴うため安全性の改善が必要でした。また、ダイヤ上のネックでもあり、短時間で作業を求めるも、人の行う作業においては時間に限界があります。そこで、平成元年より、分割・併合運用の多い線区で活躍するクハ103形式の一部に自動分併装置が装備されました。
対象となったのは、青梅線・五日市線用103系(4両編成のみ)、京葉線、常磐線の3線区です。
JR東海の103系
昭和52年、中央西線で活躍するモハ72系やモハ80系といった旧性能電車を置き換えるため、京浜東北線保安装置更新により捻出された103系が投入されました。車体塗装色は青22号(スカイブルー)のままで、最長10両編成で活躍しました。JR東海へ移行後、同社のコーポレートカラーに変更され平成11年まで活躍しました。
クハ103-73
転入にあたっては、乗務員室関係の軽微な改造が行われました。2人乗務用に対応するため、座席とワイパーの設置、増設。デフロスター(曇り止めの熱線)の設置。サボ(行先方向板)受けの設置(先頭車のみ)が行われています。
JR西日本の103系
JR東日本に次いで多くの103系を継承したJR西日本。各線区に応じた派生番代が多く誕生したほか、延命工事などでは独特のスタイルに変化した103系が多く見られました。様々な形態が多くあり、ファンを魅了した事は言うまでもありません。
3500番代
平成10年に播但線姫路~寺前駅間が電化開業した際に登場したグループです。JR東日本にも同じ番代がありますが、形式が異なるため重複は避けられています。
編成はクモハ102形式+クモハ103形式の2両編成で、クモハ102形式はモハ102形式の先頭車化改造、クモハ103形式はクモハ103形式2500番代を種車に改造しています。改造にあたっては、当時の標準となる207系通勤形電車に準じたアコモ改良、ワンマン運転に対応した機器の設置が行われました。後にトイレの追加設置工事も行われています。
3550番代
平成17年に加古川線の全線電化開業が行われ、用意されたのが本グループです。播但線と同じワンマン運転対応の2両編成ですが、様々な変更点があり新しい番代区分となっています。種車はクモハ103形式のユニットを選定したかったのですが車齢が高い事、前面形状を変更する事から、体質改善40N工事を施したユニットが選ばれました。
2両編成を2本組成した際に乗客が通行できるように前面に貫通扉を設置しました。このため105系に近いスタイルとなっています。車内は3500番代と同じく、大幅なリニューアルを行っています。
2500番代(5000番代)
平成元年に片町線(学研都市線)が全線電化開業しました。この開業に合わせて松井山手駅が新設され、同駅より京橋駅方面は7両編成での運転となりました。しかし、松井山手駅より木津駅までは有効長が短いため、7両編成での運転は出来ませんでした。そこで、同駅で京橋駅寄りの4両を切り離し、3両編成のみを入線させる方法になりました。この分割編成は翌年に4両編成となっています。
この分割・併合作業を容易にするために電気連結器を装備した5000番代が登場しました。その後、103系が置き換えられるなどの理由で電気連結器は外され、原番号に戻った車輛のほか、番代を2500番代に変更しました。
モハ102-5001~(モハ102-654(5008))
平成2年より編成変更が行われ、クモハ103形式5000番代の分割・併合相手としてモハ102形式0番代に電気連結器を装備したグループです。装備解除後は原番号に復帰しましたが、妻面に後部標識板掛けが残されていました。
阪和線羽衣支線
阪和線鳳駅から東羽衣駅の支線用として、昭和62年よりクモニ143形式荷物電車を改造したクモハ123形式が活躍をはじめました。この増結用車輛としてクハ103形式が用意され、平成元年にワンマン運転を行うため改造が行われました。
その後、クモハ123形式、初代クハ103形式は転属し、103系をワンマン運転化改造を行いました。現在、同線の運転は225系を用いて行われています。
冷房化改造
JR西日本でも国鉄から継承した非冷房の103系の冷房化改造が行われていました。当初は国鉄時代と同じくAU75型集中式冷房装置でしたが、JR東日本や東海と同じく経費削減、工期短縮を目的にWAU102型分散式冷房装置を開発。1両あたりに3基搭載します。冷房用電源はクハ103形式に専用の静止型インバータ(SIV)を搭載して対応する方式となっています。
初期の103系に多く見られるようになりましたが、AU75型と比べると冷房能力がやや劣る事から廃車が早期より始められました。現在は見る事が出来ません。
延命工事
103系に限らず、鉄道車輛全般になりますが、車輛の経年が長くなるとどうしても傷みが出てきます。このため、一定の年数を経過した車輛に対して寿命を延ばす工事が行われます。国鉄時代は「特別保全工事」が実施されました。この工事は主に配線類の交換など外観ではわからないものでした。
JR各社へ継承された国鉄時代に生まれた車輛も103系に限らず、様々な車輛に対し延命工事を実施する事になりました。JR東日本では特別保全工事を更に徹底した延命工事が実施され、冷房化改造も合わせて実施しています。外観では窓を抑えるHゴムが黒色に変化、また金属押さえに変更や車内のモケット変更、屋根材の変更などごく僅かな変化が見られました。一方、JR西日本ではJR東日本とほぼ同じ延命工事が実施されていますが、車体の大幅な外観の変化など鉄道ファンが狂喜乱舞するような工事が実施されました。
なお、103系の他にも同社所属の113系や115系などでも行われた工事です。それぞれのページにありますので、そちらも見て下さいね。
延命N工事
昭和47年までにつくられた車輛に対して実施された工事です。製造から30年の使用を目指して、機器更新、外板整備、配管の交換、制御車ではLP402型(1灯)を装備した車輛はシールドビーム化、非冷房車は冷房化、妻窓の固定窓化などが実施されています。
延命NA工事
国鉄時代に特別保全工事を実施した車輛に対して実施した延命工事です。化粧板の張替えなど延命N工事に準じた工事を実施しています。このため、外観では延命N工事車と大きな違いは見られません。
延命NB工事
昭和45年以前につくられた初期車を対象に行われた工事で、延命N工事及び冷房化改造(WAU102型搭載)、延命N40工事でも使用された1枚窓風にサッシを黒くしたものへ交換したものです。冷房能力のやや低いWAU102型は早期に淘汰対象となり、この工事を受けた車輛は現在、全て廃車となっています。
延命N40工事
製造から40年の仕様を目指すため、延命N工事、延命NA工事に加えて、塗装の総剥離を行い塗り替え、雨どいのFRP(繊維強化プラスチック)化、窓サッシの交換(下段固定、上段下降式、黒サッシ)などを行いました。
体質改善工事
延命工事を施してきましたが、後継車種となる207系と見比べると見劣りが否めなくなってきました。平成8年以降、延命N40工事以上に徹底した延命を行う「体質改善工事」を実施しました。
この工事では老朽車のイメージを払拭し、メンテナンス性を向上させるため、下記のような工事が実施されています。
〇運転台、ドア窓の支持方法の変更。
〇運行番号表示器、行先表示器、前部標識灯の内支持化。
〇乗降扉間客室窓を下段固定、上段上昇式とし、3分割T字サッシへの交換。車端部窓を固定1枚窓化。
〇荷棚のパイプ化。
〇照明カバーの取付け。
〇扇風機を廃止し、ラインデリアへの交換。冷房風道をラインフロー化する。
〇屋根を張上げ屋根化及び屋根上通風器撤去。
〇車番を国鉄時代の丸ゴシック体から、同社独特の書体に変更。
といった内容で行われ、この工事を「体質改善工事40N」と言います。その姿は究極の103系とも呼ばれ、JR西日本の匠の技が光り輝く傑作となりました。
平成14年以降、新型車輛の投入するペースが速まり、一方で103系の車齢が高まってきたことから、改造内容を縮小し、製造後30年ほど使えるように変更され、工事も車体を大幅に変更する事をやめ、車内を中心とした改造内容になりました。この工事を「体質改善工事30N」と言います。
広島地区の103系
広島地区で山陽本線、可部線、呉線でも103系が活躍していました。その車輛の中で変わり種の車輛もいました。