車掌車(しゃしょうしゃ)

 貨物列車に連結されて、車掌が乗務する貨車です。貨車とはいっても、業務が行えるように机、いすなどが設けられており、車端部は前方及び後方の確認が行えるようにデッキ付になっているスタイルがほとんどです。鉄道が開業した頃は列車全体にブレーキをかける「貫通ブレーキ」というものがなく、列車編成の数両に手ブレーキを設けた車輛を連結し、「制動手」という係員が乗り込み必要に応じてブレーキを扱っていました。このようにブレーキを備えた車輛を「緩急車」と呼び、旅客、貨物列車に区別なく連結されていました。やがて、客車や貨車の一端にブレーキを装備した車輛が登場し、緩急客車、緩急貨車という名前が生まれました。やがて、列車の高速化により貫通ブレーキが整備されると、緩急車の存在意義は薄れていき、車掌が乗務する車輛へと意味合いが変わってきました。そして、車掌だけが乗るだけで旅客や貨物を載せない車輛を「車掌車」として区別し、事業用貨車として扱われるようになりました。無線機や列車防護無線の開発が行われ、車掌車は廃止されました。現在では大物車や甲種輸送列車などにおいて控車としての役割を行うために、数両が残っています。車掌車の記号は「」で、しゃしょうの「よ」です。

ヨ2000形式(ヨ2047)

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昭和初期までの車掌車は、明治時代に活躍した「マッチ箱」と呼ばれる2軸客車を改造したもので、老朽化もあり不評でした。昭和12年に新製車かつ鋼製車として初めて登場したのがこのヨ2000形式です。箱型スタイルに両端にデッキ、乗心地を考えた軸配置などは後に登場する車掌車の原型になりました。車内の電燈設備は石油ランプで、暖房設備がなく、昭和39年に近代化工事を受け、床下に車軸発電機、蓄電池を搭載し、電灯が設けられ、合わせて石炭ストーブが設置されました。昭和42年には二段化リンク工事を受けて活躍を続けました。昭和60年に形式消滅しています。写真は京都府にある加悦SL広場に保存されている貴重な1両です。

ヨ3500形式(ヨ3961・ヨ4350)

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第二次大戦後、日本を統治していたGHQ(連合国総司令部)は国鉄に対し、貨物列車を運行する場合は車掌車を必ず連結するように命じました。必要両数を確保するため、大正時代に活躍した木造有蓋車を種車に700両の車掌車ヨ2500形式をつくりました。戦後の混乱期に取り急ぎ用意しなければならない事と物資不足などの理由により、車掌車としての必要最低限の装備しか行われず、粗末で簡素な車掌車は「緩急車」ならぬ「寒泣車」と言われるほど現場では嫌がられました。少し混乱が落ち着いた昭和25年、ヨ2500形式を置換えるためにヨ2000形式を基に作られたのがヨ3500形式です。
外観こそはヨ2000形式と同じ、丸棒組立のデッキや4枚の窓配置でしたが、石炭ストーブや電燈が設置され、乗務員の作業改善が行われている点が異なります。1345両製作され、新製車のタイプとトキ900形式からの改造車の2つに大別でき、製造年次により仕様変更が行われ、デッキが丸棒から鋼板に変更、4枚窓の配置などいくつかのタイプが存在していました。昭和34年には汐留~梅田間に高速貨物列車を運行することになり、本形式に2段リンク化改造を行い運転最高速度85km/hに対応する改造が行われてヨ5000形式になりました。昭和42年以降、同様の改造を受け、多くの車輛がヨ5000形式に編入されました。一部、そのまま一段リンクで残った車輛は四国及び北海道地区で活躍したほか、信越本線碓氷峠で活躍をしました。現在は、JR北海道でトロッコ列車の展望車代用として2両が籍を置いています。

ヨ5000形式(ヨ14493)

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昭和34年に汐留~梅田駅間に運転最高速度85km/hの高速貨物列車が新設される事になりましたが、当時の主力車掌車であるヨ2000形式やヨ3500形式は運転最高速度75km/hであり対応が出来ませんでした。そこで、ヨ3500形式を2段リンク化改造を施して、運転最高速度85km/hに向上させた形式として登場したのがヨ5000形式です。
ヨ3500形式からの改造は2段リンク化改造が主で、車体や内装はそのまま。昭和42年以降の改造車は原番号に10000を加えて区別されています。新製車は5050番代とされ、車体がリベットから溶接に変更しただけで、車内や窓配置はヨ3500形式とほぼ同じでした。この他に、北九州地区用の低屋根化改造車5800番代がありました。

ヨ6000形式(ヨ7904)

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昭和30年代のローカル線では、効率性から有蓋緩急車(ワフ)が使用されてきましたが、居住性が悪く改善が求められていました。また、慢性的な緩急車不足もありこれら問題を解決するために昭和37年に登場したのがヨ6000形式です。905両が製造されました。ヨ2000形式より続く箱型の車体ですが、ヨ5000形式(ヨ3500形式)と比べると車体長が短くなり、4枚窓ではなく3枚窓となったほか、車内も執務用机やいすが減っています。暖房用ストーブは当初は石炭ストーブでしたが、後に石油ストーブになった車輛があり、この車輛に対しては識別のためデッキ部左右に白い線が加えられました。
ヨ6000形式は3つのグループがあります。ヨ6000~ヨ6870はヨ5000形式の後継と車して製作されたグループ。ヨ6900~ヨ6915(6900番代)は北海道地区で使用するため、二重窓や床素材を塩化ビニールにするなど耐寒・耐雪使用にしたグループです。ヨ7900~ヨ7917(7900番代)は、6900番代と同じ北海道地区向けのグループですが、緩衝性能向上を行ったグループとして区分されています。

ヨ8000形式(ヨ8069・ヨ8811)

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ヨ5000形式及びヨ6000形式の補充及び老朽化した車掌車及び有蓋緩急車の置換えを目的に昭和49年に登場した車掌車です。従来車とは異なり、乗務環境を大幅に改善した形式で1170両がつくられました。
ブレーキをかける制輪子はレジン制輪子が採用されました。これは、制動時(減速を行う時)の静粛性を格段に向上させるもので、従来は鋳鉄制輪子であり、車掌車の構造上(内部が空洞である。)共鳴音が酷く、無線機の会話も出来ないというものを改善しました。車体構造も全面的に見直され、ヨ6000形式相当の台枠を製作し、別に作った車体を台枠にボルト締結するユニット工法が採用されています。これはコンテナ緩急車の仕様を採り入れたもので、コストダウン及び製造工程簡略化を図ったものです。
車内では2軸車掌車では初めて「トイレ」が設置されたほか、室内灯は蛍光灯、暖房器具は石油ストーブと大幅な環境改善が図られました。
運転最高速度65km/h以下の車掌車や緩急車が残る北海道地区及び四国地区に集中投入されました。北海道地区向けは窓が二重窓となっています。
昭和61年の車掌車及び緩急車連結廃止が行われ、多くの車輛が廃車となりました。その後は特大貨物輸送や甲種貨物輸送の係員の添乗用や工事などに用途を変更して活躍をしています。

雪かき車(ゆきかきしゃ)

降雪地域において、除雪をするための貨車です。記号は「」で、「ゆ」の「き」が由来です。雪かき車には5つの種類があり、降雪状態や除雪場所などにより使い分けられています。
1.ラッセル車
 鉄道用雪かき車では最もポピュラー存在で、前方に排雪板(ブレード)を装備し、進行方向の片側又は両側に雪を掻き分けるもの。初期の除雪に活躍します。豪雪時では雪を押しきれなくなったり、排雪する場所がなくなると運用が出来なくなり、マックレー車やロータリー車に交代します。
2.マックレー車(掻き寄せ雪かき車)
 ラッセル車で除雪を繰り返すと、左右に掻き分けられた雪が溜まり、高い壁が出来上がります。高くなると除雪が出来なくなるため、雪の壁を崩す必要が出てきます。この崩す作業を行うのがマックレー車の役割です。機関車の後方に連結し、除雪装置を「八の字」状に開き、雪の壁を崩し、その雪を線路の中央に集めるようにします。この雪を後ろからやって来るロータリー車に遠くへ雪を飛ばしてもらいます。
3.ロータリー車
 単独又はマックレー車によって線路上に掻き寄せた雪を、遠くへ飛ばす機能をもった雪かき車です。先頭部には巨大な回転翼があり、雪を切り崩して同時に雪を飛ばします。
 蒸気動力式のロータリー車は蒸気機関車と同じボイラーや炭水車を備え、発生する動力を回転翼の駆動に用いています。国内の蒸気動力式ロータリー車は自走が出来ず、機関車に押してもらう方式です。
4.ジョルダン車(広幅雪かき車)
 前面に除雪用の翼があり、左右に広げて線路の広い範囲を除雪する雪かき車で、主に停車場や操車場などの除雪に活躍しました。広く開いた翼は雪の大きな抵抗をうけるため、初期の除雪に用いられました。
5.ローダー車
 前面の翼で雪を掻き込み、破砕機を通してベルトコンベアに載せて他車に雪を乗せる方式。線路の雪かきでは多くの人員を要し、「雪捨て列車」と呼ばれる無蓋車やホッパ車に雪を載せて、近くの河川などに列車を停止させ、雪を捨てる方法が採られていました。この人員を削減し、機械化を図る目的で導入されましたが、試作の域を出ずに終わっています。

キ100形式(キ165・キ270)

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昭和3年に登場した単線用ラッセル車で、国鉄では初めての鋼製単線用ラッセル車になります。194両が製作され、その中には木製ラッセル車を鋼体化改造し編入したグループ(キ258~キ275)もありました。機関車を後方に連結するため、前頭部には操縦室とラッセルが一体になっています。車内後方部は機械室となっています。
ラッセル部はくさび形の形状をしており、ここで雪を掻き分け、その後ろにある翼で雪を飛ばしていく構造です。先頭部形状はキ100~キ143が農具の鋤(すき)に似た形状で、延鋤形、キ144~キ172がラッセル面を曲面状にした流線形、キ173~キ293はラッセル面を平板とした直線形としており、直線形が優位であるとして、他の形状の車輛の多くが改造されています。この他、運転台窓の数など違いがいくつかありました。活躍は平成元年までで、JR北海道標津線用として活躍しました。

キ550形式(キ1567)

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昭和7年に登場した複線用ラッセル車で、国鉄では初めての鋼製複線用ラッセル車になります。70両が新製又は改造にとって登場しており、第1号となるキ550は登場時はキ250形式として登場、昭和16年の称号規定改正でキ550と改称し、形式もキ550形式となっています。キ551~キ556、キ559~キ588は新製車。キ557及びキ558は木製車であったキ1500形式を鋼体化改造で編入。キ589~キ599、キ1550~キ1569はキ100形式の改造車となっています。
単線用とは異なり、複線用であるため雪を進行方向左側へ掻き出すようになっています。昭和62年に形式消滅しました。

キ700形式(ロキ756)

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大正15年に輸入され、昭和2年から国産化されたジョルダン車(広幅雪かき車)です。停車場や操車場構内を除雪するため、大正15年にジョルダン社(米国)より輸入し、これを参考に当時の鉄道省が国産化したものです。登場時はユキ400形式で、昭和3年の車輛称号規定改正でキ400形式に、昭和16年の称号改正でキ700形式になりました。24両が製造されています。
輸入した2両は簡素な構造でしたが、国産車は作業のし易いように改良。輸入車も同様に改良されました。また、当初は木造でしたが鋼製化を行っています。除雪機器ですが、当初は前面に前鋤を備えるのみでしたが、開閉式の延鋤と補助翼を備え除雪能力を高めています。昭和54年に8両が近代化改造工事を受け、翼の駆動方式を油圧式に、車体にディーゼルエンジンを搭載し、車体を箱型に変更しました。このグループは750番代として区別されました。北海道地区のほか、本州でも使用されて活躍しましたが、除雪用ディーゼル機関車や除雪用モーターカーの普及で、平成5年に形式消滅をしています。

検重車(けんじゅうしゃ)

 鉄道線路には軸重という、線路に対する負担の重さが決められており、この制限内に収まっている事を確認するために車輛重量が計測されます。貨車では貨物を積載した状態の重量から空車重量を差し引いて、貨物の重さを測定します。粉体や液体などのばら積み貨物では、この方法で荷主に料金を請求するため。これらに使用する秤が正確でなければなりません。この秤が正しいかどうかを調べる(難しい言葉で較正(こうせい)といいます。)のがこの検重車です。
古くは「衡重車(こうじゅうしゃ)」と言い、記号は「コ」でしたが、昭和41年に記号をコンテナ車に譲り、名称を検重車(けんじゅうしゃ)とし、記号を「」にしました。
検重車(衡重車)には2種類あり、一つは秤の較正を行う車輛。もう一つは橋梁耐重検査用車(橋梁の荷重試験車)があり、前者はコ1形式、その老朽置換え用として登場したケ10形式(下記イラスト参照。)の2形式のみ。後者は昭和3年に登場したコ10形式1形式のみで、全てを合わせても13両しか存在していませんでした。

ケ10形式

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ケ1形式の老朽化により昭和51年にコキ5500形式を改造して登場した検重車です。改造車ですが、車体は新製で、台車や連結器を流用した程度になります。
車体長は約11mで、車内には較正用の分銅やクレーンなどがあり、床下にはディーゼル発電機、蓄電池箱などが搭載され、自重は54tもありました。精密な貨車であるため、突放禁止の表記がありました。6両製作され、JR移行時に旅客会社各社に1両ずつ配置されましたが、車扱貨物輸送の減少などにより用途が無くなり、平成13年に形式消滅しています。

操重車(そうじゅうしゃ)

 操重車とは、クレーンを装備した車輛の事です。そうじゅうの頭文字「」が形式記号となります。主な用途は、1.操車場などで貨物を取り扱う。2.保線作業や建設工事。3.事故発生時の復旧作業。があります。
基本構造は丈夫な台枠に、クレーンを備えた回転部分を載せています。連結器も備えられており、機関車に連結されて移動しています。多くの車輛では僅かながらですが、自走も可能となっています。(現場での多少の移動になります。)
多くの操重車は車体よりブームがはみ出しており、長物車などを控車として連結し、他車などに当たらないようにしています。移動中はブームを長物車に載せています。控車には装備品や補給品を載せる場所もあります。
近年は道路整備が進み、事故や工事現場へ移動式クレーン車の搬入が容易であるため、使用する機会が減り、現役で使用している車輛はありません。(保線用機械扱いは除く。)

ソ30形式(ソ34)

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昭和3年にアメリカから輸入されたソ20形式を基本に、改良を加え昭和11年に登場した事故復旧用操重車です。扱い荷重は主巻が65t、補巻が15t(アウトリガー展開時)となっています。当初は蒸気機関を動力とし、低速ながらの自走も出来ました。燃料の石炭と水が積載された2軸炭水車を従えていました。蒸気機関は使用時に多少の無理が利き使い易い反面、蒸気圧が高まるまで時間を要し、メンテナンスも面倒であるため、昭和45年よりディーゼル機関に換装する工事を受け、炭水車を不要としました。昭和61年に形式消滅しています。

ソ80形式(ソ81・ソ180)

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昭和31年に登場した事故復旧用操重車です。昭和26年にソ100形式という小型操縦車が登場しました。この操重車は蒸気機関に代わってディーゼルエンジンを搭載しました。小型であるため、扱い荷重が15tと小さく、貨車は1両、客車は2両で扱う事を想定していましたが、貨物を積んだ貨車は1両では扱えない欠点があり、ソ30形式にディーゼル機関を搭載した形式として登場しました。
初期形(ソ80~ソ83)
ソ30形式とほぼ同じ設計ですが、全ての操作をディーゼル電気で行う方法に変更。自走用の駆動装置も電動機に変更しました。
中期形(ソ84~ソ97)
問題の多い補巻廃止し主巻のみとして、巻き上げ速度を重量に応じて3段階とする事で補う方式に変更しました。クレーンの駆動方式などを油圧式に変更しています。また、ブームの先に20tの補助フックを装備し、ブームを倒したままの作業が可能となり、電化区間での作業が楽になりました。
後期形(ソ98・ソ99・ソ180)
この3両は我が国最後の事故復旧用操重車となります。中期形と基本は同じですが、ブームの形状が「くの字」から直線状に変更され印象が大きく変わっています。また、操縦車では最初で最後となるころ軸受とされています。ラストナンバーである21両目は、ソ100形式があったためソ180となっています。
安全を支える裏方役として、活躍していましたが平成13年に形式消滅しています。

ソ300形式(ソ300)

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昭和41年に登場した橋桁架設用操重車です。先に登場したソ200形式の改良形式で、取扱い荷重35tで、ブームの旋回範囲は4mあり隣接線からの橋桁架設を可能としました。クレーン用の動力は車内にあり、50PSのディーゼルエンジンを搭載しています。また、ソ200形式ではバランス調整を砂利の積み下ろしとしていましたが、ソ300形式では車載のバランス用錘の移動で行う方法となっています。
全長は27500㎜、自重は135.5tもあり、国鉄鉄道車輛では最大の値となっています。この自重を支えるため、板バネ式4軸ボギー台車を前後2群に分けて配置する4-4軸腹式ボギーとなっています。台車群の間にあるものは自走用のディーゼルエンジン(300PS)とトルクコンバータです。最高速度は平坦線で25km/h、作業時は20km/hとなっています。ブレーキ装置は自走時は電磁直通ブレーキ、回送時は自動ブレーキの2方式をもち、切換えて使用します。回送時の運転最高速度は75km/hとなっています。平成13年に形式消滅しています。

控車(ひかえしゃ)

控車?何でしょう。形式記号は「かえる」の「」になります。ここでは、事業用貨車で扱う控車を説明します。次の目的で控車があります。
1.鉄道連絡船へ車輛を積み込む際に、船舶に機関車の重量をかけないために連結する車輛。陸地と船舶の間に橋(可動橋)が渡されますが、この橋の先端から船体にかけて重量のある車輛が載った時、沈み込んだ分を修正しますが、接続部分は傾斜がついたりして不安定になります。この上で、機関車が動こうとしたり、止ろうとした場合、空転や滑走し、脱線や衝突の恐れがあるため、控車を用いています。
2.曲線の多い貨物駅や臨港線などで、連結を容易にするために連結する車輛。
控車の前身は有蓋車や無蓋車が多く、上回りを撤去した改造車となっています。

ヒ600形式(ヒ759)

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構内入換用若しくは鉄道連絡船への積み下ろし作業用の控車として昭和29年に登場しました。有蓋車や無蓋車が種車となっており、253両が改造されました。
種車の上回りを撤去し、手すりを設置しました。中には小屋を設置した車輛も見られました。種車により、シュー式、一段リンク式、二段リンク式と走り装置が異なっていましたが、運転最高速度は65km/hとなっています。平成14年に形式消滅しています。