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昭和23年に登場したタンク式蒸気機関車です。奥羽本線福島~米沢間の難所である板谷峠では、大正時代に製作された4110形式が長らく活躍し、戦時中の整備不良などにより老朽化が進み、輸送量の増加に応えるのが難しくなってきました。
当時、板谷峠では電化工事が進んでいましたが、GHQの命令により工事が中止となっていました。この命令は後に撤回される事になりますが、電化工事が完成するまで4110形式が持ちこたえるのが困難なほどの深刻な事態であるため、電化完成までのつなぎとして、E10形式を5両製作する事になりました。E10形式は新製機関車としては最後の形式として有名です。以降登場する新形式蒸気機関車は全て改造車であり、最後の改造による新形式蒸気機関車はD61形式となっています。
この機関車は動輪を5つ配置され、曲線の通過を容易にするため第3及び第4動輪はフランジレスの車輪となっています。ボイラーはD52形式と同じ直径のもので、牽引力はタンク機関車では最も力持ちの機関車です。また、トンネル内での煙害対策として、ボイラー側を後ろとして設計されているのが特徴です。機関士は石炭庫側に向かって座ります。運転に必要な機器類や弁類が石炭庫側に付けられています。近代的な機関車ですがデフレクター(除煙板)がないのが特徴の一つでもあります。
試運転では板谷峠の最大勾配33.3‰を4110形式の1.5倍(270t)を牽引できましたが、軸重不足や細かい運転操作が難しい動力逆転機により空転が多い上、急な曲線では牽引力も低下するなど、期待していた高性能を発揮する事がありませんでした。一方で、線路に対する横圧が問題になりました。
板谷峠に登場しましたが、翌年の昭和24年には電化が完成し、早々に転用される事になりました。
まずは遠く離れた九州の肥薩線に転用されました。この路線の人吉~吉松間の勾配区間で活躍しましたが、機関車が大きすぎる事と横圧問題があり、半年ほどで再び転用先を探すことになりました。
生まれ故郷に少し近づいた北陸本線津幡~石動(いするぎ)駅間にある倶利伽羅峠(くりからとうげ)の補機として活躍しました。この際に、ボイラー側を前とするために運転台の改造が行われました。ここでは新しいトンネルが完成した昭和30年まで活躍しました。登場から僅かな期間であるため、再び働く場所を探しましたが適当な所(峠)がなく、昭和32年より、同じ北陸本線の交流と直流の境界であり、非電化区間となっていた米原~田村駅間の専用機関車となりました。特殊な構造の機関車あり、一方でD51形式などの蒸気機関車が余剰であったため、メンテナンス面などにおいて余剰車を使用した方が良いとの判断により、昭和37年にE10形式は廃形式となりました。
このように登場から14年余りと短い生涯で、不遇な一生ともなりましたが、廃車となった時期が鉄道開業90周年であり、2号機が偶然にも解体前であったため、青梅鉄道公園に静態保存される事になりました。