オハ31系

 昭和2年に国鉄の前身である鉄道省が投入した客車で、初めての鋼製車体を採用しました。オハ31系とは、昭和2年に登場したオハ44400形式(後のオハ32000形式→オハ31形式)と同じ車体、構造を有する客車を趣味的な観点に基づいて呼んでいるものです。
 このオハ31系が登場する経緯として、大正15年(昭和元年)に山陽本線安芸中野~海田市駅間において、降雨が原因による築堤崩壊が発生し、東京発下関行下り特急第1列車が崩壊した築堤に進入し、脱線転覆。死者34名の大惨事となりました。この事故の被害を拡大させたのが、木造客車である事と考えられ、以降は木造客車の製作は禁止され、鋼製客車を製作する事となりました。この第1号がオハ31系です。
 車体は木造客車として最後となるナハ23800形など(ナハ22000系)とほぼ同じで、素材が木材から鉄製に変更となった程度です。魚腹構造を持つ強固な台枠の上に、鋼製の柱や梁を組み立て、外板をリベットで打ち付ける従来工法で、自重軽減などの考えはありませんでした。

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 台車も木造客車時代からのTR10系2軸ボギー台車、TR71及びTR72形式3軸ボギー台車で、これらは船舶用として製造されていた球山形鋼(バルブアングル)を側枠に使用したイコライザー式台車となっています。
 普通車、二等車、寝台車、荷物車など多数の形式が製作され、2軸ボギー車は17m、優等車を中心とした3軸ボギー車は20mの車体となっています。なお、形式は昭和3年、昭和16年に車輛形式称号改正が行われています。
●オハ44400形式→オハ32000形式→オハ31形式(オハ31 26)

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昭和2年に登場し、512両が製作されたオハ31系の基本形式となる三等座席車です。外観は木造車輛であるナハ23800形式と鋼製となっただけで、ほぼ同じです。緩急車はオハフ45500形式→オハフ34000形式→オハフ30形式です。写真は津軽鉄道に譲渡され、現在は復元され、鉄道博物館に保存されている貴重な1両です。
スニ47800形式→スニ36500形式→スニ30形式(スニ30 8)

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昭和2年に登場し84両が製作された、荷重10tの荷物車です。写真の車輛は救援車であるスエ30形式に改造され、群馬県にある横川鉄道文化むらで原番号に復元された貴重な車輛です。
スニ36600形式→スニ30形式(スニ30 96)

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昭和7年に25両が製作された荷物車です。スニ47800形式との違いは窓の寸法が拡大された程度で、昭和16年の称号改正時に荷重が同じである事から、スニ36500形式の続番とし、スニ30 85~108番になっています。写真は救援車のスエ30形式に改造され、佐久間レールパーク(現在は閉園)に保存される際に原型に復元した貴重な1両です。現在はリニア・鉄道館に保存されています。

スハ32系

 国鉄の前身である鉄道省で昭和4年に登場した20m級鋼製客車です。鉄道省初の鋼製客車であるオハ31系は従来の木造客車の車体を鋼製とした構造で、17m級車体であった(優等車など一部は20m級)事、台枠構造が強度の確保が出来る一方で、重量が増してしまう魚腹構造でした。この構造は荷重試験を行った所、魚腹構造は必要ないことが判明。スハ32系では基本を単純で軽量な長形台枠に変更し、車体長を用途などを問わずに20m級としています。
 普通車のアコモ改良も行われています。オハ31形式ではシートピッチが従来の1300㎜で、外観からではボックス席2つに3つの窓が並んでいましたが、1455㎜に拡大し居住性を改善。ボックス席1つに2つの窓が並ぶものとし、窓の上下寸法も拡大を図っています。
 車体構造では、初期に登場した車輛は二重屋根(ダブルルーフやレイルロードルーフとも言う。)が採用されていました。この屋根構造では段差の部分に採光窓を設置する事が出来る利点(下記写真参照)があるものの、構造が複雑な上にコストもかかっていました。

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※二重屋根構造車輛の車内の様子。スハ32系ではありません。

単純な構造の丸屋根の変更を考えていましたが、室内灯の少なさなどによる薄暗いなどの理由から採用に至りませんでした。昭和6年に初めての三等寝台車30000形式(後のスハネ30形式)で、車輛限界を最大限活用して寝台を設置する事となり、この目的を達成させるために丸屋根を採用。屋根の製造工程が少なくなり、コスト削減が図れたことから、昭和7年以降の増備車は丸屋根になりました。昭和13年に後継となるオハ35系が登場し、一般形客車の増備は北海道向けのみとなります。これは保温、凍結による破損防止のためで昭和16年までスハ32形式二重窓車が増備されました。また、オハ35系には転換式クロスシートの二等車がないためオロ35形式が同じく昭和16年まで増備されました。

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オハ31系では特殊な鋼材(球山形鋼)を用いた釣合い梁(イコライザー)を用いたTR11形式でしたが、この鋼材が造船技術を用いたもので、戦後造船需要が激減したため生産が難しくなり、フルモデルチェンジを行いました。
ペンシルバニア形とも呼ばれる簡素な台車が設計され、2軸ボギー車はTR23形式、3軸ボギー車にはTR73形式が用いられました。
スハ32系とは、昭和4年に登場したスハ32600形式(後のスハ32形式)及び昭和7年より登場したスハ32800形式(後のスハ32形式)と同じ車体構造をもつ客車の総称で、趣味的な観点から一括りとした呼称です。
スハフ34400形式→スハフ32形式(スハフ32 2357)

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二重屋根で設計されたスハフ34200形式のモデルチェンジ形式です。丸屋根構造の三等座席緩急車で、昭和7年に登場しました。昭和16年に車輛称号改正により、スハフ34200形式と統合され、スハフ32形式となり99番以降の車輛番号となっています。
スハ32800形式(二重屋根車はスハ32600形式)→スハ32形式を緩急車にしたものです。一部の車輛は特急列車用で製造されています。後に座席を減らし、スハフ35形式となったほか、荷物車改造の理由から台車振替を行ったスハフ36形式、職用車や荷物車への改造を行った車輛があります。車体番号の変更では電気暖房化工事を行った車輛には原番号に2000番が加えられました。国鉄からはJR東日本にスハフ32 2357の1両のみが継承されました。現在、高崎地区を中心にイベントや団体用として活躍をしています。乗降扉の自動化(ロック機能追加)、自動化に伴う車側灯の追加設置、デジタル無線アンテナ設置など、やや原型とは異なる部分がありますが、平成28年現在、旅客用車輛としては最古の車輛となっています。
マロネフ59形式(マロネフ59 1)

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この寝台車は直宮(天皇と直接血縁関係にある皇族の事。)及び貴賓客の御乗用として昭和13年にマイロネフ37290形式として3両登場した一等、二等寝台緩急車です。昭和16年の車輛称号改正により、スイロネフ38形式となり、スイロネフ38 1~3となりました。車内は一等寝室(1人用区分室(個室の事))を2室、二等寝台は収納時に向かい合わせ座席となるプルマン式寝台を鋼製客車では初めて採用。後に登場する二等寝台車はこの寝台の構造を基本とする事になります。一等寝室には寝台及び安楽椅子が設置され、間仕切りを解放するとお互いの部屋を側通路を通らず行き来出来る構造となっています。客室窓には1000㎜幅の大きな側面窓が採用され、同時期に登場したスロ30960形式(オロ36形式)や後に登場したオハ35系など広窓車への橋渡し役として鉄道車輛の歴史に重要な意味合いを持つことになります。
終戦後は進駐軍に接収となり、昭和22年にスイロネ37形式になりました。車軸駆動の冷房装置を搭載、一部の乗降口を閉鎖し配電盤室の設置。車掌室の撤去が行われました。
接収が解除されると3両はそれぞれ異なった運命を進みます。1番は昭和25年に皇太子公式御乗車として14号御料車に、2番は昭和26年に車輛称号改訂によりマイロネ39形式に、3番は昭和23年に特別職用車スヤ48形式(※特別職用車とは連合軍総司令部及び外国貴賓国内旅行用、国鉄総裁、鉄道管理局長などの管内視察用の車輛を言います。)となり、昭和25年に皇太子非公式御乗用のスイロネ37 3(番号が復帰)になり、昭和27年にマイロネフ38形式になりました。この際に、冷房用配電盤が設置されたため乗降扉が閉鎖されていたため、車掌室に外を見るための開き戸を設置し、自重を冷房搭載時のものとした事から形式変更となりました。さらに、昭和30年位等級改正が行われ、二等A・B寝台車マロネフ59形式になり、昭和36年まで活躍しました。現在は京都府にある京都鉄道博物館に保存されています。
スハシ38形式(スシ28 301)

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この形式の誕生は九州島内の急行列車用として誕生したマイシ37900形式→マロシ37900形式→マロシ37形式と北海道内の急行列車向けに誕生したスロシ37950形式→スロシ38形式からになります。どちらも二等車と食堂車の合造車です。昭和19年、戦争により食堂車は不要となり、それぞれ厨房と物置を残して、残りの設備を撤去し、三等用の座席を設置したマハ49形式になりました。戦後、残った車輛は再び食堂車への復元が行われる事になり、スハシ38形式となります。この際に更新工事を行っています。車内は三等室と食堂があり、その間に専務車掌室と従業員用の休憩室がありました。本州向けの0番代(1~6)と北海道向けの20番代(21~23)、ここまでは二重屋根を持った車輛で、本州向けに丸屋根の100番代(101~104)がありました。この100番代のうち102番が大阪府にあった交通博物館で展示及び食堂として使用する事なり、この際に全室を食堂とする改造を行いました。ここで職人気質なのでしょうか、食堂車になってしまったので、種車の番号を付けるとおかしくなってしまいます。そこで架空の形式番号スシ28 301となりました。現在は京都府にある京都鉄道博物館で保存されています。
マイテ49形式(マイテ49 2:マワ車所蔵)

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国鉄の前身である鉄道省にて昭和13年に登場した一等展望車です。スイテ37040形式として登場し、特急「富士」号に使用されていた一等展望車の置換えを行いました。昭和16年の車輛称号改訂でスイテ49形式となり、1、2番が付けられました。
展望室と一等室から構成され、展望室には1200㎜幅、その他を700㎜幅とした客室窓が設置されています。展望室にはボックスシートが8名分あり、床面には営業用客車では初めての絨毯敷きとし、明るいモダンな洋式が採用されています。また、車軸駆動冷房装置の準備工事も行われていました。
戦争中は使用が停止され、戦後進駐軍に接収。解除後は1番は座席を1人用リクライニングシート化、照明の蛍光灯化や冷房改造工事が行われ、昭和31年に青大将色(淡緑5号)に塗装変更を行い、特急「つばめ」、「はと」の予備車として使用されました。昭和35年に一等車が廃止され、形式をマロテ49形式に変更しています。2番は1番と異なり戦前と同じ座席とし、蛍光灯化や冷房化改造が行われました。2番も予備車として扱われ、昭和36年に廃車、そのまま保存されました。国鉄分割民営化の昭和62年に車籍を復活させ、JR西日本が継承しています。現在、日本で唯一の営業運転可能な3軸ボギー客車となっています。

オハ35系

 国鉄の前身である鉄道省が昭和14年に製作した20m級鋼製客車で、スハ33650形式(後のオハ35形式)を基本とする同じ車体構造を持った車輛を言います。オハ35系はこのオハ35形式をはじめ同様の車体構造を持つ車輛を趣味的観点から、便宜的に呼んでいるものです。
 スハ32系のモデルチェンジ車と位置付けられるもので、外観では客室窓が600㎜が標準でしたが、大きく開放的な1000㎜に拡大されました。窓形状が2種類になった事から、600㎜窓を「狭窓」、1000㎜以上の窓を「大窓」などと呼んで区別する事もあります。車体構造では、台枠などを中心に見られた過剰な補強を見直し、リベット接合から溶接へ移行するなどスハ32系を基本としつつ、軽量化が図られました。
 台車はスハ32系と同じく、2軸ボギー車はTR23形式、3軸ボギー車はTR78形式を基本としています。途中より、乗心地改善を目的とする新しい台車の試用も行われています。ウイングばね式台車、ゲルリッツ式台車、OK台車を履いた車輛があり、これらは後に誕生する各種鉄道車輛や新幹線の実現へと大きく実を結ぶことになります。
 ローカル線の代名詞、鉄道模型でもおなじみのオハ35系ですが、現在は津軽鉄道でストーブ列車、大井川鐵道で活躍する姿が見られます。
スハ33650形式(オハ35形式)(オハ35 2329)

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オハ35系の中心となる三等座席車です。戦前の昭和14年から昭和18年、戦後の昭和21年から昭和23年に1301両が製造されました。国鉄客車において単一形式としては最も多い数となっています。当初は「スハ」となっていましたが、溶接構造により軽量化が図られ「オ」である事が判明。昭和16年の車輛称号改正で「オハ」、「オハフ」となりました。戦前製と戦後製には大きな違いがあります。
1~581 戦前製の車輛で、丸屋根のスハ32形式暖地向けの最終増備車となる昭和13年製をモデルとし、前位乗降扉付近に洗面所、トイレを設置、定員数は変わらないものの眺望性を改善した1000㎜の大きな客室窓が設置されています。
この頃の鉄道省では、溶接技術進展を受けて車体強度増強や重量軽減などを目的とした長柱構造というものが採用され、張上げ屋根や客室窓上下に設置されていたウィンドゥ・シル/ヘッダーを外板の内側に溶接し、外観は平滑な仕上がりとなるノーシル・ノーヘッダーなど当時開発、実用化された車輛設計技術を採り入れた試作車が複数存在しています。(私鉄のお部屋 大井川鐵道も参照。)
582~693 戦後に登場した丸屋根の車輛。戦前製とほぼ同じ。
700~1307 戦後製のグループで、車端部の屋根の曲げ加工を簡略なものとし折妻(半切妻)構造とし、台車もコロ軸受となったTR34形式に変更したグループです。
その後、電気暖房化に伴う工事が行われる事となり、元番号に2000番が加えられると共に車体色を青15号(写真)に塗装変更する改造が行われました。(そのままぶどう色で残った車輛もあります。)晩年は50系一般形客車と併結運転をする姿も見られました。
スハフ34720形式(スハフ33形式)(オハフ33 2555)

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オハ35形式にブレーキ弁付の車掌室を設けた三等座席緩急車です。オハ35形式と同じく戦前製と戦後製のグループに分けられ、606両が製作されました。スハフ34400形式(スハフ32形式)のモデルチェンジ車になり、車掌室のある側の妻面には屋根上に上がるはしごが備えられているのが特徴です。1~346は戦前型、347~606は戦後型となります。この他、オハ35形式やスハフ41形式などの他形式からの改造車もありました。
オハ36形式(オハ36 125)

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昭和23年にオハ35形式の改良増備車としてスハ42形式の形式名で登場しました。140両が製作され、車体形状は戦後型オハ35形式と同じく絞りの無い折妻ですが、台車はウイングばね式のTR40形式を履いています。後年にマイネ40形式などと台車を振り替えた車輛はオハ35形式に、更新工事を実施した61両は重量等級が変更となってオハ36形式になりました。同時期にオハ36形式の緩急車としたオハフ41形式が20両つくられました。しかし、翌年の昭和24年にマイネ40形式との台車振替が行われ、オハフ33 607~626と編入され、短期間で形式消滅しています。
マロネ40形式(マイネ40 7)

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この寝台車は昭和23年運輸省鉄道総局が製作した一等寝台車です。この寝台車が登場するに至るまでには、鉄道車輛用冷房装置と戦争の歴史が大きくかかわっているので少しご紹介しましょう。
冷房装置の発明
 日本の鉄道車輛の冷房装置は1960年代以降は電気式(電動式)が原則として使用されています。それ以前までは車軸駆動冷房装置という車軸の回転(走行)によって得られた動力を用いて、冷房用圧縮機を駆動させるシステムで、昭和11年に南海電気鉄道の前身である南海鉄道が特急形車輛に国内で初めて実用化させました。この冷房装置は現在使用されている冷房装置のシステムとほぼ同じで、電源が確保できる電車であったため実現が出来ました。当時の主流である蒸気機関車牽引の列車では実現は困難でした。客車に小型のディーゼル発電機を搭載して自車の冷房装置を駆動させるシステムは昭和32年に登場したオシ17形式以降になります。
鉄道省でも車輛用冷房装置の開発が行われており、昭和11年にスシ37850形式食堂車に車軸動力駆動方式の冷房装置を搭載して登場しました。特急列車に連結させ使用してみましたが、停車中は動作しないので暑く、高速走行になると効き過ぎて冷えてしまうという問題が発生。後に能力を弱める調整が行われました。この試みはこの形式のみで、他の形式には及びませんでした。
進駐軍専用列車
 昭和20年、日本が太平洋戦争に敗戦し、戦争は終結しました。アメリカ軍を中心とした連合国軍が各地に進駐するようになります。当時の日本は道路整備が未発達で、長距離輸送の手段は鉄道と船舶に限られ、国鉄線の管理権を掌握されてしまいました。
 戦時中優等客車の多くは地方へ疎開し、保全されていましたが連合国軍は接収して軍用特別列車の専用車輛としました。その際、一部の車輛に連合国軍の指示によって冷房化が行われる事となり、車軸動力式冷房装置を搭載する車輛が出てきました。
 この時に使用されたのが、戦前にスシ37850形式に試用した川崎車輛製のものを改良した「川崎式KM式客車空気調和装置」です。現在の電気式冷房装置と同じ冷媒式ですが、駆動装置が大掛かりで客車の床下半分以上を占める重量のあるものでした。非力な蒸気機関車が牽引するには非常に大変なもので、冬季には取り外していたほどです。
 進駐軍の当局は車輛の新製を指示する事があり、運輸省はそれに応じて車輛の設計を行います。朝令暮改ともいえる指示もあり、発注したかと思えば製作途中で中止。といった戸惑いを隠せない事が多々あったそうです。そのような中、運輸省も黙ってはいません。外国人観光客輸送の問題があり、車輛の増備も考えなければなりません。しかし、直接訴えてもYesの返事がもらえない事が多いので、少しひねった内容で認可をもらい、昭和23年に戦後初めての新製寝台車としてマイネ40形式1等寝台車がつくられる事になりました。

このマイネ40形式は戦前の優等寝台車では標準となっていた3軸ボギー台車をやめ、三等座席車などに多く見られる2軸ボギー台車を採用した点が最大の特徴です。車体は従来車のように屋根をすぼめて丸くする形態ではなく、切妻のように断面をスパッ!と切り落とした形を採用。妻面は平らではなく、三面折妻としており、冷房用送風ダクトを配した事から屋根形状が深く、車高が高くみえます。車内は側廊下式2名用個室4室、中央通路式のプルマン式解放寝台8区画を備え、トイレを両端に設置しています。従来車の優等寝台車における開放式寝台はツーリスト式と呼ばれる昼間はロングシートになる形態が主流で、最初にプルマン式を採用したのは昭和13年に登場したマイロネフ37290形式であった。しかし、この車輛は皇族、貴賓客用の特別車で、本格的な採用はこのマイネ40形式が最初となります。
台車は当時の鉄道省標準であったTR23形式の軸受をローラーベアリング化したTR34形式を履いて登場しました。しかし、乗心地が悪いため、スハ42形式、スハフ41形式と台車を振り替えてウイングばね式のTR40形式を装備しました。
 冷房装置は従来の川崎式KM式客車空気調和装置を進化させたもので、冷媒で空気を冷やすのではなく、水タンクにある水を冷やし、その冷水を天井の室内機に送り、車内を冷やす構造としました。当時は優等列車であっても10分以上の停車はごく普通で、列車停車中や定速運転時に水が温まるまで冷房が効き続けるという利点がありました。この間接冷却は後に圧縮機を用いた方法に変更されてます。
東海道・山陽本線の夜行寝台特急列車を中心に活躍。昭和35年等級改正により、マロネ40形式に変更。昭和47年に引退し、形式消滅しました。
その後、マロネ40形式は第二の人生を歩き始めます。事業用車への転身です。昭和38年に発生した鶴見事故など、貨車の競合脱線現象を解明するためにつくられたマヤ40形式脱線試験車。職員の健康診断を行うスヤ42形式保健車、鉄道工事現場の作業員の移動宿舎となるオヤ41形式工事車、運転士などの教育などを行うマヤ43形式教習車に改造されました。
このうち、オヤ41形式がJR移行後まで残り、改造された2両は1両はオヤ41 1より元のマイネ40 7に復元され、愛知県にあるリニア・鉄道館で、もう1両のオヤ41 2は元のマイネ40 11に復元され、群馬県にある碓氷峠鉄道文化むらに保存されています。

オハ60系

 このオハ60系とは国鉄が昭和24年に木造客車を改造し、鋼製客車とした客車を言います。このグループを総称して『鋼体化改造車』とも呼びます。
 昭和22年2月25日、八高線東飯能~高麗川駅間の20‰下り勾配を超満員(戦後の混乱期であり、食料等の買い出しを目的とする乗客が多く、屋根の上に乗客を乗せざる得ないほどの異常な混雑で、常態化していました。)の高崎行下り普通列車(C57形式+客車5両編成)が速度超過により曲線を曲がりきれず、脱線し、客車4両が築堤下に転落しました。転落した客車のうち木造客車は粉砕に近いほど大破しました。この事故により、184名が死亡、495名が負傷する大惨事となりました。この死者184名は昭和15年に発生した西成線列車脱線火災事故に次ぐもので、負傷者では当時最悪の鉄道事故となります。
 事故の原因は超満員の乗客による荷重により、ブレーキ力が十分に聞かなかった事。そして、木造客車であったため被害が拡大してしまった。この事故により木造客車の構造上の弱さが指摘され、木造客車の淘汰、置換えを進める事になりました。
 国鉄の前身である鉄道省が新製する客車を鋼製客車に切り替えたのは昭和2年で、八高線事故の20年前になります。しかし、この事故時点で国鉄が保有する客車の約6割が木造客車という状態でした。ローカル線の普通列車では木造客車がごく普通で、鉄道が国有化される以前の様々な私鉄が設計した客車(これを総称して雑形客車と言う。)も現役で活躍していました。つまり、木造客車の多くは明治時代から大正時代末期にかけて製造されたもので、製造から20年以上も経過しており、老朽化が進んでいるうえ、戦時、戦後の酷使、資材難によって内外の荒廃は一層進んでおり、木造客車の根本的な改善には鋼製客車と比較しても莫大な費用が必要でした。そこに八高線事故が発生したのです。
 鋼製客車への置換えが強く望まれましたが、戦後の混乱期によるインフレーションにより製造費が捻出できない事。当時の鉄道を管轄していた進駐軍は、車輛の新製には消極的で要望には応じない問題がありました。そこで、新製が無理ならば、木造車を改造する名目で「鋼体化」という手法が採用される事になります。かつて、鉄道省時代に木造電車を鋼製車体に改造する実績があった事にヒントを得たのです。木造車のうち、台枠や台車などの鋼製部品を流用し、鋼製車体を新製する方法です。因みに、木造電車の改造を「鋼製化改造」、木造客車の改造は「鋼体化改造」といい区別されています。
進駐軍の担当者を混雑する駅に案内し、方々が破損した老朽木造車にすし詰めになった乗客が窓から乗降する現状を見せ、過去の事故における木造車と鋼製車の違いを提示し、木造車輛の危険性を訴えた所、認められ、昭和24年よりオハ60系鋼体化客車が製作される事になりました。
 改造にあたっては鋼製の台枠の改造から始めます。17m級が主な木造客車5両から20m級鋼体化改造車4両分をつくると言うのが基本です。昭和31年までに全国の国鉄工場、主要民間車輛製作会社を総動員して製作されました。客車の安全性を重視するため鋼製車体とするのが主であったため、形態の変化は少ないのですが、内装や材質は多少のランクダウンを認めるなどがあり、担当部署での細部の違いは多数あります。
木造客車鋼体化にあたっては、普通列車での運用が前提であった事から三等普通車、荷物車、合造車が多くつくられました。車内は木造客車時代と遜色ない部分も多く、また輸送力を確保するため、シートピッチも木造客車並みの1335㎜。台車も17m級木造客車で使用していたTR11形式を再利用したため、20m級車体では相性が悪く、高速走行時の動揺は酷かったそうです。
こうして木造客車は鋼体化が進められていましたが、残された木造客車の老朽化は一層進み、総武本線では乗車率300%という超満員の圧力に客車が耐え切れず破損し、運転が出来なくなる。といった今では考えられない事故もあり、木造客車を緊急に廃車するなどの対応も行われました。
 オハ60系は、進駐軍からの許可をスムーズにするため、木造車の名残を残した窓幅を700㎜の狭窓で設計されたオハ60形式0番代(390両、うち15両は後にオールロングシート化を行い、オハ63形式となる。109両はセミクロスシート化改造で1100番代になりました。)、緩急車のオハフ60形式(70両、北海道向け。1両が新幹線雪害対策車オヤ90形式に改造。)をいいます。
 その後、窓幅を1000㎜とした近代的な外観を有する本州向けのオハ61系、北海道向けオハ62系が改造によって誕生しました。

オハフ61形式(オハフ61 2528)

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昭和25年より795両が改造された三等緩急車です。本州向けのオハ61系と呼ばれる系列で、対となる車掌室の無いオハ61形式は1052両改造されています。車掌室は初めて車端部となり、客室との間に乗降扉を設ける構造としました。この構造は以降登場するスハフ42形式などの緩急車に継承されています。

オハ64系

山陽本線の支線である和田岬線の専用車輛として派生した系列で、昭和44年にオハ61形式を改造したオハ64形式(写真左)が5両、緩急車のオハフ61形式を改造したオハフ64形式(写真右)2両が誕生しました。

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和田岬線では通勤時間帯の混雑が著しい上、乗車時間が6分ほどと短いことから、トイレ、洗面所、座席をすべて撤去し、3~4名ほどの小さなロングシート、多数の吊り革が配される改造を行いました。また、兵庫駅と和田岬駅(それ以外はありません。)では同じ側にホームがあるため、ホーム側には車体中央部に外吊り式の手動乗降扉が切歯されています。イベントや保存以外の旧型客車では唯一JRに継承され、平成2年まで活躍しました。

優等車輛(グリーン車)

 三等車が主だったオハ60系にも少なからず優等車輛が設計されました。昭和35年に二等車のスロ60形式が鋼体化改造により登場。初めてリクライニングシートが採用されました。進行方向に向いて回転が可能な2人掛けリクライニングシートで、乗心地の良いウイングばね式TR40形式を履いています。冷房化準備工事は行われていたものの、実施されませんでした。また、同年には同じく鋼体化改造によりスロ61形式が登場。予算の関係ですぐにスロ50形式とされています。スロ60形式と同じ構造ですが、シートピッチが狭く、窓割りも1000㎜の広窓ではなく、700㎜の狭窓となっています。また、トイレも前後2ヶ所ありますが、洋式から和式に変更されている点が異なっていました。
 急行列車や準急列車向けのリクライングシートを持たない古い二等車をリクライニングシート車に置き換えるために、昭和34年にオハ61形式を改造したオロ61形式が登場。翌年に等級制が変更され、一等車となっています。トイレと洗面所と反対側のデッキをトイレ、洗面上に改造したほか、蛍光灯の設置、台車の変更を行っています。このオロ61形式は自重が軽く、電気暖房を装備しても形式が「オ」のままで、碓氷峠など勾配区間において重量制限の厳しい信越本線など上野駅発着の列車には重宝な存在で、大活躍をしました。その後、オロ61形式、緩急車となるオロフ61形式は冷房化改造が実施され、スロ62形式、スロフ62形式となりました。
このスロ62形式、スロフ62形式をお座敷客車に改造したのがスロ81系とも言われる、スロ81形式、スロフ81形式です。(写真)

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※スロ81系は各鉄道管理局に配属され活躍しました。その中でも金沢鉄道管理局所属車は帯が無いのが特徴でした。(写真右:マワ車所蔵

荷物車・郵便車・合造車

 木造客車の鋼体化改造のほか、改造後に荷物車や事業用車に再改造されるなど多数の60形式がありました。

オハユニ61形式(オハユニ61 107)

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昭和27年に鋼体化改造により登場した三等座席郵便・荷物合造車です。当時、使用が出来ない木造客車を急きょ廃車にしたため、130両も製作されました。1960年代になると荷物車などへの改造、廃車が進んで最後に2両が五能線で活躍。そのうちの1両が群馬県にある碓氷峠文化むらで静態保存されています。

オハニ36形式(オハニ36 11)

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優等列車向けに鋼体化改造により登場した三等座席荷物合造車で、昭和30年に登場しました。三等室はスハ43系に準じた設計になっています。登場時はTR11形式台車を履き、オハニ63形式と名乗っていました。しかし、高速走行時の動揺が激しく、優等列車には不向きであるとして、昭和31年から軽量客車で設計されたTR50系台車を基にした設計のTR52形式を履き、形式をオハニ36形式としました。さらに、電気暖房装置を装備した車輛は重量が増加したため、スハニ37形式となっています。
現在、2両のオハニ36形式が動態保存されており、1両(7番)は大井川鐵道(日本ナショナルトラスト所有)で、もう1両の11番はJR東日本で保存されています。後者の11番は再整備の際、乗降扉に鎖錠装置の設置、側面にドアの開閉状態を示す表示灯、デジタル無線アンテナが設置され、原型とは若干異なっています。

70系

 この系列は国鉄の前身となる運輸省鉄道総局が製作したもので、太平洋戦争において米軍による日本本土への空襲により被災した車輛を戦後に復旧したもので、別名『戦災復旧車』とも言われます。この戦災復旧車は70番代の形式が与えられました。
 昭和21年。終戦から1年しか経過しておらず、まだまだ焼け野原であった日本。当時、客車の保有数は約11000両ありましたが、それは書類上のもので、実際は被災し廃車となったもの、故障や事故で使用不可能な車輛、さらに連合国軍に接収された車輛等が含まれ、約7割程度しかありませんでした。
 外地からの引揚げ、食料買い出しなど復興に向けて人々は動き出し、旅客輸送需要は一気に増大。客車の著しい不足に伴い、貨車を旅客車の代用として対応しました。しかし、安全やサービス面では良い話ではなく、早急な客車の新製が強く求められました。しかし、戦後の混乱期であり、設備、資材、労働力不足、技術力の低下により対応は困難でした。そこで、被災した客車や電車の中で動かせそうな車輛を再利用し、客車不足を補う事が考えられました。それが70系客車です。
 あくまでも応急的対策であるため、最小限の資材を用いて最大限の収容力を確保する事を目的に設計されることになりました。主に大都市部での使用である事から、通勤形客車に近い形態となっています。国鉄工場を中心に鉄道車輛会社、造船所、航空機製造会社など様々な会社が加わりました。基本的な設計図面があるものの、被災程度が軽微であれば、この図面に従わず単に修理を施しただけのもの(原型と同じ。)や全くオリジナル?とも言いたくなるような車輛まで様々あったようです。これら製作された車輛は車体長により次のように区分されました。
70系列・・・車体長17mの車輛に付与された形式番号です。客車ではオハ31系、電車ではモハ30系、31系、50系の被災車輛を種車としたものです。
71系列・・・車体長20mの車輛に付与された形式番号です。客車ではスハ32系、オハ35系、電車ではモハ40系、51系、63系、32系、42系の被災車輛を種車としたものです。
77系列(後に78系列となる)・・・車体長20mの車輛で、3軸ボギー台車を履く車輛に付与された形式番号です。
旅客車のほかに郵便車や荷物車もつくられました。応急的対策として少ない資材と低い生産能力を最大限に活かして製造したものの、従来の客車と比べるとその粗末なつくりは劣悪そのものでした。旅客需要が落ち着き、客車の製造能力が回復を見せ始めた1950年代に入ると、旅客車から外され荷物車や郵便車へ転用、改造されていきました。1960年代に入り、荷物車や郵便車も新製車輛が増備されました。これにより戦災復旧車は救援車など事業用車輛に改造され、営業用車輛は消滅しました。

スエ71形式(スエ71 65)

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昭和35年に70系荷物車や郵便車、配給車を種車として登場した救援車で、103両改造されました。

スエ78形式(スエ78 5)

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昭和36年にマニ78形式及びマユニ78形式を種車に15両がつくられた救援車です。ラストナンバーの15番のみJR東日本に継承され、高崎支社のイベントに活躍していましたが平成19年に廃車となっています。

スハ43系

 昭和26年に登場した優等列車向けの車輛として登場した客車で、オハ35系と軽量客車と呼ばれる10系の間に位置するものです。主となる形式であるスハ43形式と同じ設計に沿って製作された客車を趣味的観点からスハ43系と呼んでいます。
 この系列の最大の特徴は、車内設備や台車構造などに新しい新機軸を採用し、従来車の居住面やサービス面を大幅に改善した点にあります。
 系譜ではオハ35系のモデルチェンジ車になりますが、車体は製作が容易なオハ60系鋼体化客車で採用された切妻車体(後退角が無い車体)を採用。僅かながらではありますが、空間が少し広がりシートピッチの拡大を図っています。また、車掌室は従来車ではデッキと客室の間に設置していましたが、オハ60系同様に車端部に設置しています。これにより後方監視の改善が図られています。
 台車はオハ35系のマイナーチェンジ車にあたるスハ42形式で採用されたウイングばね台車のTR40形式を基本とした、改良型のTR47系台車を履いています。
 車内設備では、当時は優等客車と比べて見劣りするのもやむを得ないとされてきましたが、スハ43系では大幅な改善が見られます。室内灯、天井に最小限の1列配置でしたが、これを2列にしました。蛍光灯は技術的かつコスト面で見送られましたが、白熱灯でも従来よりも大幅に明るくなりました。座席は長距離旅客を考えたものとし、座席の改善のほか、頭もたせ(座って寝る時に頭を預けるもの)が設置されました。トイレでは使用中である事を知らせる知らせ灯を初めて採用。当初は赤いランプでしたが、異常を知らせるものと勘違いし、不安にさせた事から橙色に変更しています。この他にスハ43系ではデッキ又は洗面所に大型のくず物入れの設置、各座席のテーブルに栓抜きが客車としては初めて設置されています。

スハ43形式(スハ43 2497)

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本系列の基本となる形式で、698両がつくられました。車体はスハ42形式とほぼ同じですが、車端部は完全切妻形状となっています。スハ43形式のうち、374番以降重量が軽い車輛はオハ46形式へ編入されたほか、オハネ17形式、オシ16形式の改造時に台車を振替え、TR23形式台車を装備したオハ47形式に変更されるなど多数の車輛が改造の種車となり、形式変更をしています。また、電気暖房方式を装備した車輛は原番号に2000番を加えています。

スハフ42形式(スハフ42 2173)

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スハ43形式に車掌室(手ブレーキ室)を設けた緩急車で、335両がつくられました。車掌室の妻面には監視窓があり、外観の特徴の一つとなっています。この形式も様々な改造が行われており、北海道向けの500番代、車内をロングシート化してオハフ41形式200番代、軽量化改造を行いオハフ33形式、スハ43形式と同じくスユニ50形式に改造された車輛があります。また、スハ43形式に車掌室を設けた400番代というものがありました。この車輛はデッキと客室の間に車掌室を設置したため、外観が大きく異なっています。写真はJR東日本に所属する1両で、ドアに鎖錠装置、車側灯、デジタル無線アンテナの設置などが行われています。

スハ45形式(スハ45 45)

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スハ43形式の北海道仕様になる形式で昭和27年より53両つくられました。酷寒冷地での使用という事で、客室窓は二重窓、台車に歯車駆動方式車軸発電機を装備しています。

スハフ44形式(スハフ44 18)

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スハフ43形式の北海道仕様の形式です。基本構造はスハフ42形式と同じで、装備などはスハ45形式と同じとなっています。スハ45形式からの改造車(100番代)もありました。

オハ46形式(オハ46 13)

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三等座席車として大幅なアコモデーション改良を施して好評であったスハ43系ですが、車体重量が40tクラスの「」であり、長大な編成を組む際には機関車にとっては負担となる問題がありました。昭和30年に各部品などの見直しを図って重量を「」級にする改良を行いました。この改良した形式がオハ46形式になります。外観では屋根を鋼板としており、妻面の屋根の布押えが無くなりすっきりしているほか、雨どいも細いものとなっています。緩急車としてオハフ45形式があります。オハ46形式は60両がつくられ、後にスハ43形式からも形式変更で160両が編入されています。オハフ45形式は25両がつくられて、後にオハ46形式のオリジナル車からの改造である100番代、スハ43形式として登場し、オハ46形式に編入した車輛を種車とした200番代がありました。写真は京都府にある京都鉄道博物館に保存されている貴重な1両です。

オハ47形式(オハ47 2286)

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昭和36年に三等寝台車のオハネ17形式、食堂車のオシ16形式の製作により、また、両形式の電気暖房化、冷房化改造の際、車体重量に耐えられるようにするためスハ43形式との種車の台車を交換したために登場した形式です。スハ43形式の履くTR47形式を供出し、発生したTR23形式を装備しました。結果、重量が軽くなり「オ」級となりましたが、乗心地が悪くなるという結果をもたらしています。スハ43形式の半数近くになる328両が改造されました。

この他に二等車(現在のグリーン車)ではスロ51形式(急行用リクライニングシート車輛。後に緩急車化されスロフ51形式となります。)、スロ52形式(スロ51形式の北海道仕様の改形式)、スロ53形式(現在のグリーン車の基本仕様を確立した形式)、スロ54形式(スロ53形式の特急列車仕様)、マロ55形式(スロ54形式の冷房化に伴う試作車。軽量化し、スロ54形式に編入)がありました。寝台車ではスロネ30形式二等寝台車があります。食堂車はマシ35形式、カシ36形式がありました。郵便車の形式はオユ40形式、スユ41形式、スユ42形式、スユ43形式。荷物車はオリジナル車輛の用途廃止などの理由により改造された形式があり、マニ35形式、マニ36形式、マニ37形式がありました。その荷物車がさらに事業用車に改造されています。

スハ44系

 この系列は昭和26年に特急列車向け車輛として、スハ43系の基本設計を基にして設計されたものです。三等車ですが、デッキは特別二等車と同じく片側とし、車内は2列配置の一方方向の固定クロスシート(当時の特急列車には展望車が連結されており、終点駅でデルタ線を用いて編成ごと方向転換を行っていました。)を中央に通路を配して左右に配置しています。中心となるスハ44形式、スハ44形式に車掌室などを設けた緩急車スハフ44形式、さらに荷物室を設置した緩急車スハニ35形式の3形式が登場しました。登場後は計画に従って、東海道本線特急「つばめ」、「はと」、東北本線特急「はつかり」などに活躍し、それらが電車化や気動車化されると冷房化される事も無く一般形車輛に格下げされてしまいました。この原因は夜行特急列車が20系寝台車(ブルートレイン)に移行したためです。このため、観光団体専用列車や急行列車などに転用する事になりました。しかし、ここでも問題が起きます。終点駅で編成ごと方向転換を行う事を前提に固定クロスシートとしたため、転用する列車に適さないという問題です。そこで、回転式クロスシート化工事が行われ、幹線の急行列車の座席車として活躍しました。

ナハ10系

 昭和30年に国鉄で開発、試作を経て量産された軽量構造を持つ客車で、ナハ10形式を基本とする様々な形式を趣味的観点からナハ10系と呼んでいます。
 1950年代、軽量化設計で世界に名が知られるスイス連邦鉄道(スイス国鉄)の軽量客車を参考に設計、開発が行われました。従来の概念にとらわれる事のない革新的な設計を採り入れ、従来車と比べて格段の軽量化(既存車輛の約30%軽量化)を図り、輸送力増強、車輛性能向上に成果を上げました。エクステリアでも大型窓の採用など欧風の軽快なスタイルが話題となりました。その後、電車や気動車を含む国鉄車輛の多くは、このナハ10系客車を基本とした軽量構造を採用しており、旅客車輛設計に大きな影響を与えました。
 ナハ10系の開発には戦後、GHQによって解雇された航空技術開発に携わった技術者が国鉄にやって来たことに始まります。従来の鉄道車輛は「台枠」にあらゆる強度の多くを負担させていました。これを台枠中梁を省略し、車体全体(台枠側梁、構体、屋根、側板、妻板、波型鋼板(キーストン・プレート))で強度を分散して負担する「セミ・モノコック構造(準張殻構造)」を採用しました。これは、重量制限の厳しい航空機のために考えられたもので、この設計手法を鉄道車輛開発に用いたものです。
 台車も軽量化が図られています。戦後、高速電車用台車の研究開発の成果を受けて、従来では形鋼(かたこう)や鋳鋼(ちゅうこう)の重量のあるものでしたが、プレスした鋼板部材を溶接により組み立てるものとして、大幅な重量の軽減を図っています。しかし、当時は中長距離輸送を担っていた国鉄。激しい混雑が頻繁にあり、すし詰め状態の事を考えて、枕ばねを硬いものとしました。硬いばねを補助するダンパーもコスト面などが重視された結果、力不足となり、従来の車輛では見られなかった短い周期の上下動が常に発生し、乗心地を大きく損ねてしまいました。

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※ナハ10系で採用されたTR50系台車。

 車内では、軽金属部品やプラスチックなどの合成樹脂が多く用いられており、軽量化が図られています。これにより、内装から木材が消えました。三等座席車ではトイレ、洗面所の位置が臭気対策により、デッキより外側に配置されました。
 登場後、昭和40年にかけて座席車や寝台車など多数の車輛が製作され、派生形式も多数誕生しました。四国を除いた全国各地の急行列車を中心に活躍。特に信越本線では国鉄一の難所である碓氷峠。非常に厳しい牽引定数が設定されており、在来車3両分の定数で、4両連結が出来る軽量客車を強みを最大限に発揮し、同線の輸送力向上に大きな功績を残しています。
 一方で、極限まで軽量化をしたため短所もありました。前述の台車枕ばねの硬さによる振動のほか、断熱、保温を構体内に吹き付けたアスベストのみに頼り、窓が大型であったため、内装に木材を多用した客車と比べると保温性が良くありませんでした。
 登場から10年ほど経つと、薄い鋼板による劣化。寝台車では一段下降窓を採用しましたが、水抜き穴が不十分であったため腐食が目立つようになりました。さらに、国鉄労使紛争が保守環境をさらに悪化させる結果を招いてしまいました。
 室内でも設備の問題がありました。昭和46年、山陽本線を走行中の急行「雲仙」に連結されていたナハ10形式の洗面台から出火。火元の車輛を含めて3両が焼失。逃げ遅れた乗客1名が死亡。しかし、この事故による火災対策は行われませんでした。
 昭和47年11月、北陸本線にて北陸トンネル火災事故が発生。死者30名の大惨事となりました。出火原因はナハ10系の食堂車であるオシ17形式の石炭レンジであり、オシ17形式は直ちに営業運転から外されました。しかし、事故で亡くなられた方々の死因は全て一酸化炭素中毒による中毒死である事が判明。前年の事故と共に、可燃性及び有毒ガスを発生させる合成樹脂を多用するナハ10系の防災面での不備が指摘されました。実車を使用した火災試験を数度行い、現状の内装では火災の危険が高い事が確認され、合成樹脂材からアルミ化粧板の交換などの難燃化対策工事が行われました。
 この当時、急行列車は特急に格上げされ、電車や気動車に置き換えられていた時期でもあり、この際にスハ43系客車などに余剰があった事もあり、老朽車を中心にそのまま廃車されました。
 座席車は予想以上の老朽化が進行しており、隙間風や振動などの乗心地の悪さから1970年代半ばには急行列車から撤退し廃車が進み、残った車輛は普通列車に活路を見出すも、50系客車に追われて昭和60年に営業運転から引退しました。一方、寝台車は昭和50年、山陽新幹線全通により急行列車が多数廃止、特急列車格上げを行ったため大量廃車が始まり、残った急行列車の一部は20系を使用しました。この他の列車では適当な代替車輛が無かった事が幸いし、昭和58年まで急行列車で活躍しました。最後は普通列車の寝台車として使用され、昭和60年に座席車と共に営業運転から引退しました。その後、ナハフ11形式2両がJR東日本に事業用車代用(控車)として引き継がれましたが、平成7年に除籍されてナハ10系の歴史に幕を閉じました。

ナハフ11形式(ナハフ11 1)

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ナハ10系の基本となる形式にナハ10形式があります。この形式は試作車8両と量産車114両が製作されました。この形式を緩急車とした形式がナハフ10形式になります。(48両)その後、室内灯を蛍光灯とした形式がナハ11形式で昭和32年に登場。102両が製作され、98~102番までは電気暖房装置を装備して登場したため、原番号に2000番を加えた2098~2102番で登場しています。このナハ11形式を緩急車としたのがこのナハフ11形式で、30両製作されました。写真は群馬県にある碓氷峠鉄道文化むらに保存されている貴重な車輛です。

オハネ12形式(オハネ12 29)

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ナハ10系の寝台車のグループの一形式です。昭和31年に三等寝台車としてナハネ10形式が登場しました。座席車のナハ10形式900番代(試作車)が試験中で結果が出ない中、見切り発車の形で設計されたという特徴があります。車体幅2900㎜、車体長20mの大型車体を国鉄で初めて採用しました。本州向け100両、北海道向け500番代が10両つくられました。ナハネ10形式はその後、寝台区画を1区画つぶして緩急車に改造。ナハネフ10形式になり、その後冷房化改造工事を行い、自重増大によりオハネフ12形式になりました。ナハネ10形式は限界まで寝台を詰め込んでおり、給仕室を拡大及び寝台間隔の拡大を行った改良型として昭和32年にナハネ11形式が登場。本州向け72両、北海道向け2両がつくられました。昭和40年より冷房化改造工事が行われ、オハネ12形式となっています。
以上は新製車となります。ナハ10系の寝台車としてオハネ17形式という三等寝台車があります。昭和36年に登場しました。主に戦前製の老朽化した2軸ボギー客車の台枠、在来車輛の台車を流用し、ナハネ11形式に準じた車体を新製して組み合わせた寝台車で、新製された寝台車よりも多い300両以上が改造されました。後に冷房化改造工事を受け、スハネ16形式に形式変更されています。このオハネ17形式には団体列車用の車輛が24両あり、その車輛に対応した緩急車がナハネフ11形式で、冷房改造によりオハネフ13形式となっています。写真は群馬県にある碓氷峠鉄道文化むらに保存されている貴重な車輛です。

オロネ10形式(オロネ10 27)

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ナハ10系寝台車グループの二等寝台車(A寝台車)で、昭和34年に20系特急形寝台客車のナロネ21形式と共に開発されました。ナロネ21形式に冷房装置の駆動電源を発生させるディーゼル発電機を搭載した形式で、20系で開発されたTR55形式台車を更に重荷重に耐えられるように設計変更をしたTR60形式空気ばね台車を履いています。本州向けに97両、北海道向け500番代6両がつくられ、500番代は後に緩急車化改造を行い、オロネフ10形式となりました。車内はナロネ21形式と同じく、プルマン式寝台が配置されていました。写真は現在、愛知県にあるリニア・鉄道館に保存されている車輛で、事業用車に転用されたものを復元したため、客室窓が開閉式となっています。オロネ10形式時代は固定窓となっていました。
三等寝台(B寝台)と二等寝台の合造車形式もありました。勾配が多い亜幹線用の夜行列車向けにつくられたもので、昭和33年に登場したナロハネ10形式です。オロネ10形式よりも先に登場していますが、二等寝台はやや簡素な内装ですが、プルマン式の配置となっていました。中央本線や信越本線の夜行列車で活躍、その後一部車輛は北海道で活躍をしました。

オシ17形式(オシ17 2055)

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昭和32年に登場した食堂車で、車体幅を2900㎜とし、初めて全テーブル4人掛け、定員を40名とした形式です。国鉄の所有する食堂車の基本構造を確立し、後に登場する電車や気動車の食堂車にも大きな影響を与えました。(従来車は片側が2人掛けで定員は30名)
戦後、日米講和条約発効により、占領軍から返還された展望車や食堂車など戦前製3軸ボギー台車を履く客車の台枠を流用し、新製した車体と組み合わせてつくられました。厨房内では、カシ36形式で試用された電気レンジが失敗であったため、旧態依然の石炭レンジとされ、冷蔵庫も同様に氷冷却式となりました。
昭和47年に発生した北陸トンネル列車火災事故の火元となった事から、全車使用停止となり、事業用車に改造された2両を除いて廃車となりました。写真は事業用車に改造され、復元したもので貫通路が塞がれているなどの若干の違いは見られるものの、面影を残しています。群馬県にある碓氷峠鉄道文化むらに保存されている貴重な1両です。
 ナハ10系の軽量構造を用いた食堂車としてオシ16形式がありました。昭和38年に登場した形式で、夜行急行列車の寝台設置、解体作業の間は通路で待たされることになります。そこで、待避所を兼ねたサロンカーとしてこのオシ16形式がつくられる事になりました。車内にはテーブル席、カウンター席があり、食堂車よりもビュッフェ車に近い性格の車輛でした。オシ17形式と同じく、戦前製客車の台枠を流用し、新製した車体を組み合わせる手法で6両が製作されました。急行列車の特急格上げが進み、用途不要により約10年ほどの昭和48年に廃形式となっています。

荷物車・郵便車

 10系の軽量構造を採用した荷物車は1形式のみで、昭和35年に登場したカニ38形式試作荷物車です。古い優等客車を流用した改造車でナハ10系客車に区分されませんが、車体の基本構造に軽量構造が採用されていました。昭和30年代に入ると荷物車は戦前、戦後の古くなった旅客車を改造して充当されるようになり、新製車は50系まで待つことになります。一方で、郵便車は郵政省所有で近代化を図る目的から新製が行われ、走る郵便局とも言われた区分室(郵便物を区分する棚があり、スタンプを押して仕分けていました。)を持つオユ10形式、オユ10形式の区分室を拡大したオユ11形式、区分室の無い、護送室のみを有するオユ12形式、オユ12形式に電気暖房装置を装備させたスユ13形式、走行性能を14系特急形客車と同等とし、オユ11形式の後継車となるオユ14形式、オユ14形式に電気暖房装置を装備させたスユ16形式、スユ13形式の走行性能を14系特急形客車と同等としたスユ15形式(2019~2039は50系客車の車体構造としています。)がありました。昭和61年に鉄道による郵便輸送が全廃となり、全ての形式が消滅しています。この中には登場後5年にも満たないで廃車となる車輛もありました。


救援車

 事故や災害などが発生した場合に現場に向かう車輛です。国鉄では戦前より職用車の一つとして「非常用車」(客車)や救援車代用貨車がありました。昭和28年の車輛称号規定改定により独立し、車種の一つとなっています。事故が発生し、復旧作業にあたって復旧機材を積載した自動車や列車で向かっていましたが、起きてから準備をするのではなく、迅速に対応が出来るように予め機材を積載した車輛を常備しておこう。というのもので誕生する事になりました。営業用車輛で古くなった車輛を改造したものが一般的です。車内には復旧用の資材や機材、作業員の休息所、簡易な食事が作れる厨房などがあります。国鉄(JR)のほかに私鉄でも所有する会社があります。出動する機会がない事が一番。車輛基地などの隅でひっそりと待機しています。現在では道路の整備も進んだことから、数が減っており、現在ある車輛は道路の無いような場所で発生した時のために用意されています。

スエ30形式(スエ30 9・41)

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昭和28年の車輛称号規定改定により、事業車となっていたオヤ9920形式(1両)を改形式としてスエ30形式が登場しました。この車輛は事故廃車となったスハ32系の客車を種車に改造したものです。
その後、スエ30形式が増備される事となり、改造した種車は下記の通りです。
2・3・5~7・・・スユ30形式
4・14・15・20~25・46・59・60・・・スユニ30形式
8~13・16~19・26~39・42~45・47・48・50・51・55・57・58・・・スニ30形式
40・41・49・52~54・・・オハニ30形式
56・・・オハ31形式
62・・・オル31形式を再改造。

スエ32形式(スエ32 1)

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昭和39年に登場した救援車です。当時、オハ32系やオハ35系の古くなった車輛を種車としてマニ36形式、マニ37形式荷物車が大量に改造され、増備されました。これにより、オハ31系列のマユニ31形式、マニ31形式荷物車が余剰となったため、これらを種車に改造した救援車です。昭和41年にスエ31形式というオハ31系列の同一の荷物車を中心とした車輛を改造した救援車が登場しました。両形式とも違いはなく、なぜ別形式になったのは不明となっています。

オエ61形式(オエ61 67・309)

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当初は老朽化したオハ60系列の客車(オハフ61・オハユ61・オハニ61・スハニ62・オハユニ61・スユニ61・マニ60・マニ61・オル60形式)を改造した救援車です。これらを改造した車輛はオエ61 1~39・41~101番と0番代を名乗りました。その後、50系客車の荷物車マニ50形式の新製増備に伴い余剰となったマニ36形式及びマニ37形式荷物車を改造したグループが加わり、従来車と区別をするためマニ36形式を改造した車輛を300番代、マニ37形式を改造した車輛を600番代としました。

職用車

形式記号が「ヤ」の事業用車輛です。

マヤ10形式(マヤ10 2001)

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マワ車所蔵

昭和42年に1両が登場した車輛性能試験車です。電気機関車の引張力や消費電力などの運転性能、列車速度や機関車各部の温度などを測定します。車体はナハ10系客車を基本にオハ12系の軽量構造を採り入れた広幅車体となっています。屋根上には冷房装置のほかパンタグラフが搭載されており、この他に交直流切換器など交直流機器が搭載されています。電化区間ではここから車内の冷暖房や測定機器用の電源を集電していました。台車は高速台車のTR206形式で、運転最高速度は120km/hです。機関車のほかに一般形客車、20系客車、一般貨車、コキ10000系といった様々な車種に連結する事が出来ます。
登場後、20系客車、10000系貨車の牽引試験やEF66形式、ED78形式など電気機関車の性能や誘導障害といった各種試験に活躍。EF64形式1000番代の性能試験(写真)以降は、使用回数が減り、ED79形式の性能試験を最後にJRへ継承される事なく廃車となりました。

オヤ17形式(オヤ17 1)

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昭和49年にオシ17形式食堂車を改造した教習車です。2両が改造され、それぞれ外観、室内共に異なっていました。写真の1番は休憩室部分に乗降扉を設置し、厨房側の妻面に運転台用の3枚窓を設置。室内は講習室、高圧機器室、模擬運転台で構成されていました。現在は群馬県にある碓氷峠鉄道文化むらにて、オシ17形式風に再現され保存されています。一方、2番は1番がぶどう色2号に対し、青15号に黄色1号の帯を側窓上下に1本ずつ巻いたものとなり、厨房室部分に模擬運転台、訓練室、講習室、信号取扱い室、車掌室の構成となっていました。

スヤ42形式(スヤ42 1)

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職員の健康診断を行うため各地を巡回する保健車です。車内は健診用の各種設備を備えています。4両が改造により登場しており、1はマロネ40形式、2~4番はスハ43形式を改造しました。

マヤ43形式(マヤ43 1)

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昭和49年にマロネ41形式を改造した教習車です。2両が改造によって登場しました。列車掛教習車で、客室設備を一部残し、講習室を設置しています。

マヤ34形式

 昭和34年に登場した軌道検測車です。昭和56年まで10両がつくられました。その用途から現業機関や鉄道ファンの間でマヤ34形式そのものを「マヤ車」、マヤ34形式を使用した列車を「マヤ検」と呼んでいます。
 線路は列車が幾度となく通過しているうちに狂いが生じてきます。この車輛が登場する以前は保線職員による検測となっていました。しかし、列車本数の増加や高速化が進み、列車として運行し、軌道検測が行えないか。という研究が鉄道技術研究所により行われ、登場に至りました。
 車体は当時の最新鋭客車であったナハ10系を基本としていますが、車体長は1番が17.5m、2002番(電気暖房装備のため2000番代となっています。)以降は18.04mとしています。また、検測精度の都合から、走行時の振動によるたわみを±0.25㎜以下としており、強固な車体構造となっています。車内は測定室のほかに寝室も設置されています。各種検測装置や冷房装置などの電源は発電用ディーゼルエンジンとし、車端部に設置されています。

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台車は5m間隔で3台設置され、台車の動きの変化から軌条の各種狂いを同時に測定しています。軌道検測のほかに車輛の速度、加速度、横圧も測定が出来ます。連結器は様々な車輛と連結できるように双頭連結器を装備しています。
マヤ34 2501
 昭和34年にマヤ34 1として登場。車体は貫通構造で屋根形状は深い丸屋根で非冷房でした。妻面には3枚の縦長の窓が設置され、片方の妻面上部にヘッドライト2灯が設置されていました。側面は観測用の出窓が見られ、その脇にぽつんと丸窓があって特徴の一つとなっていました。塗装はぶどう色2号に黄色の帯を巻いたものでした。後にぶどう色2号から青15号に変更されています。昭和42年に北海道で使用するため、耐寒耐雪構造の改造工事を受け、2501番になります。JRへは継承されず昭和62年に廃車となりました。
マヤ34 2002~2007(マヤ34 2004)

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 昭和40年から昭和42年に登場したグループです。車体色は当初より青15号となり、電気暖房装置を新製時より装備し、原番号に2000番を加えられた番号で登場しています。1番のマイナーチェンジになり、車体長の延長及び台車形式の変更、冷房化(丸屋根から平屋根に変更)、妻面窓の縮小及びヘッドライトの廃止などが行われ、外観が大きく変化しました。
マヤ34 2008・2009(マヤ34 2008・2009)

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昭和53年に登場した車輛で、冷房装置の変更、電源装置の容量増強、換気用ルーバー大型化と増設、電源用機関のラジエーターの大型化、それに伴う屋根上への移設、側面に扉の追加設置、側面窓配置の変更、妻面窓の縮小の変更が行われました。
マヤ34 2010
最終増備車で昭和56年に登場。2008・2009番とほぼ同じですが、冷房装置が1基増え、5基となっています。
マヤ34 2002更新工事(マヤ34 2002)

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JR東日本に継承された2002番は平成2年に大規模な更新工事が実施されました。屋根や車体構造を一新し、難燃化対策を施したほか、電源装置、冷房装置の変更。車体色を明るく目立つ、白色を基調に青色、橙色を用いたものに変更。車内は測定室の居住性改善が行われています。また、測定関係では測定車輪によるものから、電磁式・光学式変位検出装置に変更し、非接触方式にしました。また、データ解析を早めるためパソコンが導入されています。鉄道ファンからは「白マヤ」という愛称が付けられました。

 登場以来、全国の国鉄線(JR線)で定期的に運用され、線路が接続されている私鉄、第三セクター路線でも本形式を使用した軌道検測が行われてきました。(かつては東京急行電鉄や西武鉄道、小田急電鉄、南海電気鉄道などでも行われていました。)
 国鉄からJRへ移行する際、2501番は廃車となり、残り9両はJR各社へ継承されました。しかし、老朽化による後継車輛がそれぞれの会社で製作され(JR東日本E491系電車、E193系気動車(JR北海道でも検測をする。)が、JR東海ではキヤ95系気動車、JR西日本ではキヤ141系気動車(JR四国、JR九州でも検測をする。))、現在はJR北海道、JR九州にそれぞれ1両が籍を置いているのみとなっています。

オヤ31形式(オヤ31 12)

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この車輛は昭和24年に登場した建築限界測定用試験車と呼ばれる事業用客車です。7両が既存車輛を改造してつくられました。種車の関係からスハ32系に属する事業用客車になります。
建築限界測定試験とは、新線の開通や電化開業時など線路の周りの建造物(電柱、駅舎など)に大きな変化が発生した場合に、その建造物が走行する車輛に触れないか、つまり建築限界に収まっているかどうかを測定する試験です。試験車には側面よりハリネズミの針のような矢羽根を広げて走らせます。建築限界からはみ出した建造物に矢羽根が触れて倒れる仕組みです。この矢羽根を広げている様子が花魁(おいらん)(吉原遊郭の遊女で位の高い女性をいう。現代の高級娼婦、高級愛人と呼ばれる女性にあたる。おいらんの語源は「おいらの所の姉さん」など諸説ある。)がたくさんのかんざしを挿しているように見える事、また測定中は低速で走行しているため、花魁がゆっくりしずしずと歩く様に見える事から「オイラン車」の愛称が付けられています。
オヤ31形式は5両がJR四国及び貨物を除いた5社へ1両ずつ継承されました。老朽化もあり、現在はJR北海道と西日本に籍を置く車輛の2両のみとなっています。写真はJR東海で活躍した車輛で、現在はリニア・鉄道館で保存されています。

マヤ50 5001(マヤ50 5001)

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JR東日本に所属するオヤ31形式の後継車輛として、オハ50系客車のオハフ50形式を改造して平成7年に登場した建築限界測定用試験車です。オヤ31形式と大きく異なるのは矢羽根を広げて物理的に接触をさせる方式から、光を照射し、カメラにより撮影解析を行い測定する方法に変更した事です。測定中は明るく強い光が照射されており、「光オイラン」と呼ばれています。当初はスヤ50形式と名乗っており、車体色も独特のものでしたが、平成15年にE491系、E193系と併結対応改造を行い、装備品により重量が増加した事からマヤ50形式に変更され、塗装も変更されました。