所有路線(京都市営地下鉄)

烏丸線 国際会館~竹田駅 13.7km 全線複線 電化(直流1500V)
東西線 六地蔵~太秦天神川駅 17.5km 全線複線、電化(直流1500V)

京都市電(現在は廃止)

標準軌路線営業キロ 68.8km 全線複線 電化(直流600V)、狭軌路線 6.3km 全線複線 電化(直流600V)

京都府京都市内及びその周辺地域で公営交通事業を行っている地方公営企業です。地下鉄のほか路線バス(市営バス)を運営しています。かつては市電(京都市電)、無軌条電車(市営トロリーバス)も運営していました。
京都市営地下鉄は2つの路線があり、烏丸線は竹田駅より近鉄京都線と相互乗入れを、東西線は京阪京津線の列車が御陵駅より太秦天神川駅まで直通運転を行っています。ただし、京都市営の所有する車輛は乗入れていません。東西線の駅は全てフルスクリーン式ホームドアになっており、東西線の車輛を撮影する事は非常に困難です。車輛基地の一般公開があれば撮影が可能です。
京都府に地下鉄が誕生したのは昭和56年、烏丸線北大路~京都駅間です。平成16年に東西線六地蔵~醍醐駅間が開業しています。
一方、かつて京都市交通局で運営した京都市電(路面電車)があります。誕生は明治28年。京都電気鉄道という私鉄で開業、日本最初の一般営業用の電車が産声をあげましたこの背景には国内で初めて水力発電を行った(当時、世界でも2例目となる。)事があります。水力発電所をつくったものの、当時は電気の普及が見込めず、産業用動力としても馴染みがないため、結果的に路面電車が唯一の使い道となったからです。この後、誕生する電力会社も自社で鉄道事業を行う会社がいくつか誕生しています。
開業した路面電車には特徴があり、路面電車との交通事故防止のため先導役がいました。先導役は少年で「電車、来まっせ。電車、来まっせ。」と声をあげて事故防止に務めました。時には先導役の少年が電車に轢かれるという事故もあったそうです。
最初の路線は京都南部に位置する伏見から京都駅付近で、徐々に路線を拡大。京都市も明治45年に独自の路線を建設。大正7年に京都電気鉄道は京都市に買収されました。路線は戦後まで延伸され、一部の路線を除いて京都市街の碁盤の目になった街路に沿う形で建設されました。最盛期には76.8kmという大きな路線網が形成され、昭和38年には一日当たり約56万人の利用がありました。
しかし、モータリゼーションの進展や地下鉄建設の推進などがあり、利用者は減少。経営困難な路線は廃止となっていきました。利用者離れの原因となった一つに定時性が保てなかった事。併用軌道に自動車を乗り入れ禁止にすべきでしたが、実施されたのは僅かの区間だけ。結果、定時性が確保できず時刻を停留所に提示できないため、利用者が離れるという悪循環となってしまいました。この様な理由で廃止となった路面電車は地方都市で多く見られました。
路面電車は古い。地下鉄こそ大都市の象徴と路面電車に変わる交通機関として地下鉄の建設が行われ、多くの路面電車廃止反対の声がある中、昭和53年に日本で最初の路面電車は全面廃止となりました。因みに京都市営地下鉄の路線網計画は昭和44年に出来上がっていますが、現在においても全て完成はしていません。

京都市営地下鉄の電車
10系

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昭和56年、烏丸線開業と同時に登場した電車です。編成は当初は4両編成でしたが、現在は6両編成となっています。
車体は軽量アルミニウム製の20m級車体片側4扉構造です。前面部は関西地区では初めて傾斜した形状を採り入れた特徴があります。客室窓上部と前面には京都市営バスと同じ緑色の帯が入っています。開業時に登場した車輛(写真左)は非常用扉に窓が無く、竹田駅延伸開業時に増備された車輛は窓がある。客室窓も四隅が角隅、丸隅など内外に違いを見る事が出来ます。
制御方式は回生ブレーキ付サイリスタチョッパ制御方式、ブレーキ制御方式は電気指令式空気ブレーキが採用されています。現在は制御方式をVVVFインバータ制御方式(主制御器には純水を冷媒とし、主回路にSiC(炭化ケイ素)ダイオードとIGBT素子を組み合わせたハイブリッドSiCを採用)に更新されています。これにあわせて、主電動機もかご形三相誘導電動機に換装されています。

京都市電の電車
狭軌1形

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昭和36年に廃止された堀川線(北野線)で活躍した車輛です。京都電気鉄道を買収した際に引き継がれた車輛で133両を引き継ぎました。当時、広軌1形という形式があり、堀川線は狭軌(ナロー)である事から「N」を付けて区別をしており、「N電」という通称で呼ばれていました。
●京都電気鉄道開業時のお話。
開業時は全線単線で交換所を設けて行き違いを行って運行を始めました。当時、閉そくの概念がないため、運行は時計を見て電車を走らせていました。しかし、時計の精度が低い上に、遅延も多かった。このため、単線区間に両方向から電車が進入して立往生。どちらを交換所まで戻すかで運転士や乗客同士の罵倒や取っ組み合いの喧嘩がよく起きたそうです。曲線区間では正面衝突事故、さらに道路の横断による轢死事故も発生しました。
安全対策を講じなければならず、明治28年にルールが制定されます。街角や曲線区間に同時進入しないように監視する信号人が配されたほか、電車には運転士、車掌のほかに危険な区間で電車の前を先行して走り(最高速度が8マイル(12.9km/h)であったので、先行して走る事が出来た。)歩行者に電車の接近を知らせる告知人(前走り)を乗務させました。さらに車輛の前後には救助網を設置しました。
この告知人は主に子供が雇われました。昼間は赤旗、夜は提灯を持って、先行し電車の接近を告知しました。この仕事は走行中の電車の飛び降り、飛び乗りを強いられ、さらに夜間では全線で先走るとなる重労働で、告知人が電車に轢かれる事故も多発しました。このため世間からの非難も多く、明治31年に廃止(制度は明治37年まで)されました。一方、信号人も職務怠慢やミスにより同時進入をしてしまう事故が絶えない事から、必ず交換所で交換する方式とし、後にトロリーコンタクター(架線にスイッチを設置し、電車のパンタグラフがスイッチを入れる事で、分岐器や信号機を操作する装置)や通票を用いています。

500形

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大正13年に登場した路面電車で、40両が製作されました。この頃の京都は明治時代に行われた水力発電をきっかけに日本最初の電車である京都電気鉄道の開業、路線網の拡大、これに合せるように都市インフラの整備が進み近代都市、そして東京、横浜、名古屋、大阪、神戸といった都市に肩を並べ六大都市と呼ばれる大都市へと拡大の時代となっていました。大正7年に京都電気鉄道を買収し、京都市営電車(京都市電)となり、路線の延伸が進みました。
路線の延伸、利用者の増加に対応するためにこの500形が登場しました。従来の車輛は単車であったのに対し、初めてボギー台車を採用したのが最大の特徴です。車体長13.5m程で、シングルルーフとなっています。台車の相違により3つのグループに大別する事が出来ます。
車内はシングルルーフでありながら、セミダブルルーフ調に仕上げられ、シートの末端は木製と京都らしい古風な仕上がりです。
写真は梅小路公園(京都鉄道博物館の近くにある)内に開設された「市電ひろば」で静態保存されている貴重な1両です。なお、車内はカフェに改装されています。

1600形

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この車輛は昭和12年に登場した600形という路面電車に始まり、600形は95両が製作されました。昭和恐慌により利用者が伸び悩み、新製車輛もなく推移していましたが、昭和10年頃より徐々に景気の回復もあり、利用者数も徐々に回復する兆しとなりました。この頃、開業時より活躍してきた広軌1形の老朽化が目立つようになり、この置換えとして600形が誕生しました。
流線型の車体に緑色基調の塗装は「青電」の愛称で親しまれました。しかし、戦争という悲し出来事に巻き込まれます。戦後になると電装解除をした広軌1形を連結して「親子電車」として運行をします。この親子電車は軽量化を重きにおいて設計した600形には想定外のもので、戦中、戦後の過積載に加えて、付随車の牽引は台枠が大きく歪むなど深刻な悪影響を及ぼしました。このため、登場後から約20年を迎えた昭和31年に「20年締替」という大規模更新工事が行われる事になりました。この工事は台枠や車体骨組みの強化を中心としたもので、63両が実施されました。
この頃、京都市電では混雑時間帯と閑散時間帯の輸送需要の差が大きい事が問題となりつつありました。そこで、混雑時には連結運転が可能で、閑散時にはワンマン運転が可能な2000形が登場します。しかし、交通局の財政は苦しく必要両数の新造車を用意する事は困難でした。
そこで、600形の未更新車をこの2000形と同じ仕様へと改造する工事が実施され、この車輛は2600形という形式になりました。車体長の延長などほぼ新造に近い大改造であり、計画では30両実施する予定でしたが、財政状態がさらに悪化し、18両の改造に留まりました。
財政状況が悪化しつつある中で、ワンマン化を推進する事は必須でした。しかし、2600形のような大規模な改造は高コストであり、時間もかかる事から大幅に簡略化する方針とし、昭和41年に1600形が登場しました。試験車輛を製作し、その試用結果をもとに改造が実施されました。ワンマン運転を行うために安全性やサービス面には十分な配慮が行われています。連結運転は行わないため、これらに必要な設備は設置されていません。前部標識灯はシールドビーム化、ワンマン設備の設置などが実施されました。当初は67両の改造が予定されていましたが、路線廃止などの理由で種車が廃車されたため、63両となり、1605番がトップナンバーとなっています。
京都市電の標準的なスタイルを作った600形は歴史的に重要な車輛でしたが、1両も保存されませんでした。その代わりにワンマン化された1600形のトップナンバーである1605が梅小路公園にある「市電ひろば」に静態保存されています。

700形

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昭和33年に登場した路面電車です。当時残っていた200形や300形という単車(2軸車)を置換えるために登場しました。
車体は京都市電スタイルを継承しつつも、製造メーカーであるナニワ工機(現:アルナ車両)の開発したセミモノコック(準張殻構造)の軽量車体とし、浅い屋根、アルミサッシ窓、乗降扉の4枚折戸が軽快で近代的な仕上がりとし、クリーム色とライトグリーンの新しい塗装が美しさを引き立てています。
制御装置に違いがあり、48両のうち701~723までは直接制御車、724~748は間接制御車となっています。制御方式は吊り掛け駆動方式ですが、軽量車体という事もあり、同一主電動機を使用した900形と比べると加速、高速性能面ではすぐれており、京都市電の中では最高性能を有していました。
写真は京都市にある梅小路公園の市電ひろばに静態保存されている貴重な1両です。

800形

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昭和25年に登場した電車(路面電車)で、90両製作されました。京都市電では戦前より10m級のボギー車である600形を増備。戦後になると多くの人々を運ぶためさらに大きい14m級1000形を登場させました。1000形は混雑時にはたくさんの人々を運べたのですが、閑散時間帯になるとその収容力は持て余すものでした。一方、600形は閑散時間帯でも状況によっては輸送力が不足するという問題がありました。
そこで、中間的なサイズの車輛として12m級の800形が製作される事になりました。手頃なサイズが丁度よく、90両も製作される事になります。車体は600形を延長したようなスタイルです。
後に大半の車輛がワンマン運転開始に伴い、ワンマン運転に対応した改造が実施され1800形となっています。

900形

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昭和30年に登場した電車(路面電車)で、35両がつくられました。全長は約13mと、同時期に登場した800形より客室窓1つ分長くなっています。特徴の一つとして室内灯に蛍光灯を採用しています。制御方式は901~915までは間接制御車、916~935までは直接制御車となっています。2つの制御方式が存在する理由として、間接制御車は新しい制御方式であるものの運用区間に制限があり、2軸の単車を急ピッチで置き換えるため、全ての路線で運用が出来る間接制御車を投入しています。
昭和45年に京都市電のワンマンカーとして改造される事になり1900形が登場します。この1900形は京都市電のワンマンカー改造車の際の後の形式でもあり、京都市電の最後の新しい形式でもあります。1900形に改造されたのは直接制御車の916~931の16両です。15両が広島電鉄に移籍し、広島電鉄1900形として現在も活躍をしています。

2000形

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昭和39年に登場した電車(路面電車)で、6両がつくられました。なお、本形式は京都市電が市電用として新造した最後の形式でもあります。
ラッシュ時には連結運転、閑散時にはワンマン運転が出来るように設計された中型車輛で、約11mの車体長となっています。鋼製の準張殻構造(セミモノコック)のノーシル・ノーヘッダーの近代的な全金製車体です。連結を行うことから、トムリンソン式密着連結器、空気配管も内蔵された電気連結器を備え、容易かつ短時間で連結作業が出来ます。
京都市電が全廃される少し前の昭和52年に廃車となり、5両は伊予鉄道へ譲渡されました。写真は京都府京都市にある梅小路公園に保存展示されている車輛です。