氷蔵庫(ひょうぞうこ)

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冷蔵庫が実用化される前に使われていた氷を用いて冷蔵するもの。冷蔵箱氷箱とも呼ばれ、電気式が出てくると氷式冷蔵庫とも呼ばれるようになりました。登場は明治時代で、天然や人工氷を使った冷却方法が普及し、専用の道具として登場しました。写真のタイプは大正時代以降のものです。木製の躯体に二つの扉を設け、断熱材(木炭やフェルト)に覆われたブリキの箱を収めます。上段には氷、下段に食材を入れ、氷の冷気で冷やすシンプルな方法。昭和30年代に電気式冷蔵庫が登場すると、一般家庭からは姿を消しました。現在では食材が乾燥しない利点を生かし、お寿司屋さんなどの飲食店に現役で活躍する姿を見る事が出来ます。
冷蔵庫(れいぞうこ)

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日本に電気冷蔵庫が登場したのは大正7年。三井物産が米国で開発、製品化したものを輸入したのが始まり。昭和5年に東芝の前身である芝浦製作所が米国GE社製を見本に手掛け、日本初の一般家庭用向けとして販売しました。(写真)当時の価格で720円とかなりの高級家電品です。それ以前に登場した氷式冷蔵庫やガスを用いた瓦斯冷蔵庫よりも能力は上回るものの、音や故障のし易さから普及には至りませんでした。冷蔵庫上部にあるのは圧縮機や制御装置などでこのような配置をモニタートップ型と言います。

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戦後復興がほぼ終了し、高度経済成長の始まりとなる神武景気を背景に、新しい生活必需品として冷蔵庫、洗濯機、テレビの3つを「三種の神器」と呼び、これらの家電製品は広く普及していくことになります。冷蔵庫は最も遅く普及しています。
写真左は昭和32年に発売された東芝GR-820形。モニタートップ型ではなくなり、現在のスタイルになりました。
1970年代に入ると冷凍食品の普及に伴い、冷凍庫が分離した冷凍冷蔵庫が一般的になります。写真左から2番目の水色の冷蔵庫はナショナル製NR-208AF型。このタイプの冷蔵庫が家にあったという思い出のある方もいるでしょう。冷凍能力の劣る瓦斯冷蔵庫は家庭用から消え、ホテルや病院、カセットガスボンベを利用したレジャー用のものとして進化を始めます。
写真右から2番目は日立製のもの。形式は不明。1960年代のデザインですね。その右隣りは日立製作所製R-5070型。1枚扉の冷蔵庫です。こちらも昭和の冷蔵庫です。操作部などを見てみましょう。

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操作部は冷蔵庫上部にあります。まずは全体の様子。両端にコンセントがあり、トースターや電気がまなどを上において、使えるようにしています。

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操作部です。左は温度調整で、最強というダイレクトな文字が昭和を感じさせますね。右は自動霜取り装置操作部。自動と言っても始動は手動。オン、オフではなく、押す、引くというのも昭和の表現。冷凍庫は気付くと霜で一杯になっている事が多く、千枚通しなどで霜取りをする事が多々ありました。この機能が付いて幾分良くなりましたが、入れっぱなしで霜が溶けきってしまい、水浸しになってしまった。という苦い思い出もあります。

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冷蔵庫内部の様子です。写真左の右上にあるものが冷凍庫です。下段には野菜かご(ビールが入っている。)、扉にはポケットがあり、たまご専用ポケットが懐かしい。
冷蔵庫と言えば、子供が誤って中に入ってしまい(かくれんぼなどで誤って入ってしまう。)窒息死する痛ましい事故もありました。粗大ごみではなくなったため、現代では皆無な事故となっています。

洗濯機(せんたくき)
洗濯、布などを擦ったり、叩いたりする事で汚れを浮かせ、綺麗にする事。石鹸等を用いて汚れを落とし易くする事もある。洗濯は川や池、泉などにある岩などに衣類を擦ったり、打ち付ける方法でしたが、三角状の溝がある「洗濯板」が発明された。ここから人類は長くの間、この重労働を強いられることになる。

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洗濯に大きな変化が見られたのは、欧州で流行ったペストなどの伝染病が発端。かまどに湯を沸かし、洗濯物を木でかき回す習慣が生まれ、その後、樽を横向きにして湯と洗濯物を入れてハンドルを回す。手動ドラム式のようなものが生まれました。日本でも大正期に写真のような手動式の洗濯機が登場しています。

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洗濯機の大きな飛躍は電動機の発明であり、電動機を用いた電気洗濯機の国産第一号として、東芝の前身となる芝浦製作所が製作した攪拌式洗濯機「Solar(ソーラー)」が登場しました。洗濯槽上部にあるローラー上のものは「絞り機」で、今でいう脱水をするもの。洗濯物をローラーの間に通して水を絞るものです。

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写真左は昭和27年発売の東芝P型。昭和30年代に入り、「三種の神器」として洗濯機が普及し始め、主婦の重労働であった洗濯の労力を大幅に軽減する事に成功しました。写真右は昭和32年に登場した自動反転噴流式という方法を用いた東芝VQ-3型。タイマーも設定されており、洗濯時間内に別の事が出来ると大評判になった名機です。でも、脱水は相変わらず手動のまま。

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脱水をするために遠心力を利用する方法が考えられましたが、高速で回転する必要があり、別の電動機の開発が行われました。洗濯物を移す必要はあるものの、洗濯槽(洗濯とすすぎ)と脱水槽の二槽式洗濯機が1960年代に登場、1970年代から80年代にかけて主力となりました。脱水時に壊れそうな勢いで震える(時には動く)洗濯機に恐怖を感じたものです。左はナショナル製NA-W808型、右はプリンターやミシンなどで知られるブラザー工業製の洗濯機で愛称は「新珠」。ブラザー工業製の唯一の洗濯機機種で現在はつくられていないため、貴重なものです。現在では全自動洗濯機という洗濯から脱水までを一通りこなす洗濯機が主流ですが、これは1970年代からで、当初は電動機に供給する電力を可変抵抗器で加減する方法が最初でした。すぐに各社の上位機種から電子制御が行われ(写真の新珠にも、ブラザーのロゴマークの下に「電子水流」という文字があり、電子制御された機種となっています。)90年代にはコントローラーを採用し、現在の主流となっています。

テレビジョン(てれびじょん)

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一般的には「テレビ」や「TV」と呼ばれる私たちの日常には欠かせないものです。フランス語の「te'le'vision(テレヴィジオン)に由来し、teleはギリシャ語で「遠く離れた」、visionはラテン語の「視界」という意味です。
日本のテレビ放送は昭和28年2月1日で、日本放送協会(NHK JOAK-TV)が始まりです。一方、テレビは松下電器産業(現在のパナソニック)が昭和27年に発売しました。当時の価格は20~30万円程度と非常に高価なもので、庶民にはとても手の届く者ではありませんでした。

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※民放放送が始まった頃の百貨店のチラシ。庶民には高嶺の花であった事が伺えます。

人々は繁華街や主要駅に設置された「街頭テレビ」や裕福な家庭などに集まり、視聴していました。当時の番組はプロレスやプロ野球、記録映画などが流れていました。上の写真は東芝製14EK型で昭和32年発売。14インチの白黒テレビです。「三種の神器」の一つで、最も早く普及したのがテレビになります。

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テレビのカラー放送が本格的に始まったのは昭和35年。当初は「総天然色」という言葉が使われていました。テレビは現在と異なり、脚付きのものです。写真左は東芝が製作した日本初のカラーテレビ。中央は昭和39年発売の東芝16WR型(当時の価格で17万5000円)です。東京オリンピックやホームドラマなどが色彩鮮やかな画面に映し出されるのでした。初期のカラーテレビは右のようにチャンネルの他に、確かカラーバランスを調整するダイヤルが付いており、調整をしてテレビを見ました。テレビと言えば「チャンネルを回す」という言葉、今でも使ってしまいますね。子供が勉強しない時やお父さんがテレビを見たい時はチャンネルのつまみを隠されたものです。古くなり、調子が悪い時(スイッチを入れても動かないなど)は叩いたもので、電化製品は「叩けば直る」というイメージがありましたね。気付くと脚付きのテレビは無くなり、ブラウン管も消えましたね。

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写真左は日本コロムビア製のテレビです。あれ?レコード会社じゃないの?日本コロムビアは明治43年に日本蓄音機商会として設立された、日本最初のレコード会社です。米国コロムビア・レコード社と提携関係にあり、昭和21年に日本コロムビアに改称します。一方、放送機器を製作する日本電氣音響株式會社が昭和14年に設立され、「電音(でんおん)(後のデノン)」の名で機器を販売していましたが、昭和38年に日本コロムビアに吸収合併されました。この時に白物家電を1970年代まで販売していました。テレビはその一つです。写真中央はシャープ製の据え置き型のカラーテレビ、右はNEC製のカラーテレビです。

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写真は日立のカラーテレビのポスター。キドマトロンという商品名で、その下に「日立キドカラ―ポンパ」の文字が。角のようなアンテナ2本が懐かしいですね。映りが悪いとちょっとずつ動かして微調整。アンテナ付テレビは野球など、丁度良い所で映りが急に悪くなり、機嫌が悪くなる事もよくあったような。

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テレビがすっかり大好きになった日本人。テレビを手軽に持ち運びできないものかとポータブルテレビをつくりました。写真左は昭和35年に発売されたソニー製のTV8-301型。アンテナは後方にあります。写真中央はSANYO製のもの。写真右はパナソニック製のもので、80年代中期のものです。キャンプ場などで見られたほか、身近な場所ではたばこ屋さんとか銭湯の番台にありましたね。
テレビデオ(てれびでお)

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テレビとビデオが一体となった電化製品。昭和50年にソニーが初めて発売をしました。当時はビデオデッキが一般家庭には普及していない高価な家電製品で、テレビと一体したテレビデオはぜいたく品であった事。当時のビデオデッキは故障が多く、修理に出すとテレビが見れない。そして、当時はテレビやビデオデッキは購入した電器店が家に設置する製品であったため、テレビデオの必要性が無かったなどの理由により、当初はあまり売れなかったそうです。1990年代になってテレビやビデオデッキの値段が下がり、徐々に普及しました。VHSテープが懐かしい。
テレビウオッチ(てれびうおっち)

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昭和57年にセイコーから発売されたテレビの付いた腕時計。国内のテレビジョンはもとよりFMラジオも聞けるという優れもの。1.2インチの液晶画面は昭和59年にギネスブックにも世界一小さいテレビとして記録されました。アニメなどで近未来の様子が度々出てきますが、それを叶える昭和は夢と希望がいっぱい詰まった時代なんだなぁ。と感じさせるものでした。

炊飯器(でんきすいはんき)

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写真は昭和30年に発売された東芝製の電気炊飯器。日本初のものです。現在のと比べると単にお米を炊き上げるものですが、当時の主婦の家事労働時間を大幅にカットする功績を残しています。昔の炊飯器はこんな形でしたね。
ゆで卵器(ゆでたまごき)

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今も昔もみんな大好きな人が多いゆで卵をつくるもの。現在では発売されていない模様。たまごは栄養価の高いものです。1日5個くらい食べてしまう事も。
トースター(とーすたー)

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洋風な朝食というと「トースト」。平たく言えば「焼き食パン」であり、これをつくるのが「トースター」です。パンをセットして焼き上げ、焼き上がるとパンが飛び出てくる「ポップアップ型」(左)と「オーブン型」(右)に分類されます。オーブン型トースターは「オーブントースター」とも呼ばれていますね。写真右は昭和38年に日本で初となる東芝製のオーブン型トースターです。そういえば、パンをくわえて急いで通学する学生を見なくなりましたねぇ。
掃除機(そうじき)

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今ではどこにでもある家電製品の一つ。写真は日本初の電気掃除機、東芝VC-A型です。当時の価格で110円。和室、畳の多い時代では掃除機はさほど必要がない事から、ゆっくりしたペースでの普及だったようです。畳の掃除は、茶殻を撒いて箒で掃くと良いそうです。
エアコン(えあこん)

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左は三洋電機製EW-D40H型という床置きタイプのエアコン。昭和から平成初期のエアコンはダイヤル式で温度設定は弱、中、強の3種類でシンプル。リモコン式登場以前はバーで上下に動かして温度設定できるものがありましたね。使い方がよく分らず、困った事もありました。室外機はシャープ製のもの。今とはちょっと形が異なりますね。

電子レンジ(でんしれんじ)

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英語ではmicrowave oven(マイクロウエーブ・オーブン)といい、電磁波を使用して、食品を発熱させる調理機器です。「電子レンジ」という言葉は昭和36年に国鉄のビュッフェ車で製品のテストをする際に、国鉄担当者が名付けたそうです。
写真左は日本初の業務用電子レンジ。東芝製DO-2273B型で昭和36年に登場。翌年に国鉄の食堂車に採用され、昭和39年には新幹線のビュッフェにも使われました。中央はその後の後継でしょうか、現在のものにだいぶ近い形になっています。
写真右は東芝製家庭用電子レンジER-501S型で、昭和44年に東芝初の家庭用電子レンジとして登場しました。
マワ車家でも大活躍の電子レンジ。現在は三洋電機製のものを20年近く使っていますが、元気にマワ車のご飯を温めてくれています。

給湯器(きゅうとうき)

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湯沸かし器」とも言われる水を瞬く間に温かいお湯に変えてくれるガス器具。写真左は「エンゼル3号」と呼ばれる湯沸かし器で、昭和30年製のもの。一般家庭に普及するのは昭和40年前後と言われており、病院や理髪店で使用されたもののようです。写真右は普及し始めた頃のものでしょうか。中央にある小窓で点火を確認する懐かしいタイプです。
ガスコンロ(がすこんろ)

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昭和50年代頃から私たちの家にあったガスコンロです。中央は魚を焼くグリルで、水をいれて魚を焼きます。焦げるともうもうと煙が出たり、火柱が上がったりと何かと目の離せないものでしたね。この頃の製品には自動消火をする機能や火が消えたらガスが自動で止まるといった機能は無く、ドラマでは火を吹き消してガス漏れを起こすシーンがありますね。また、地震が来たら火の始末をしなければなりませんでした。右は一口のガスコンロ。イメージとしては下宿宿と呼ばれるおんぼろ木造アパートの一室で見かけたなぁ。ラーメンをつくって鍋のまま食べるシーンを思い出します。
ガス釜(がすがま)

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お風呂に使うもので、「バランス型風呂釜」と呼ばれていたもの。ガスが燃焼する際に二酸化炭素が発生し、中毒になる事故が発生します。昭和の家庭ではしばしばニュースでありました。このバランス型風呂釜は空気を汚さずに、二酸化炭素を外に出す工夫がされたもので、団地やマンションで多く使われていました。操作が少々ややこしく、点火の際は、点火窓を覘きながら、側面に付いたハンドルを廻すと「カチッ!カチッ!」と音がして、着火します。これが意外と難しい。

ディスクカメラ(でぃすくかめら)

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Tuboフォトオフィス様撮影

昭和57年にコダックが販売したコンパクトカメラです。当時は筒状のフィルムを使用したカメラでしたが、このカメラはディスク状のフィルム(写真のiの・の部分参照)を用いたもので、1枚撮影するごとに角度を変えていくもの。1枚のディスクで15枚撮影できます。カメラの軽量化、フィルム交換が容易であるなどメリットはあったものの、カメラの蓄電池がメーカー対応や、フィルムの画質が劣るなどの欠点があり、数年後に店先から姿を消しています。
カメラ(かめら)

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デジタルカメラが広く普及する2000年代以前、フィルムカメラはフィルムの装填、取出しを使用する者が行わなければなりませんでした。フィルムの装填はカメラのギアに合わせ、少し送ってから撮影。フィルムを全て撮り終えれば、巻き戻す。と一見簡単そうであるが、ギアに引っかからないで撮影してしまった。や、巻き戻しが終わったと思ったら途中であった。など取扱いにはそれなりの経験が必要でした。このため現像に出す時にカメラごと持っていく。という話がありましたね。撮影も大変で、ピント合わせや露出、ストロボなど上手に撮るために慣れるのに一苦労でした。遠出して失敗した時の悲痛な思いを何度した事でしょう。
昭和50年代中頃になると手軽に扱えるような自動化されたカメラが発売されました。今では当たり前ですが、フィルムをある程度セットすると自動で動き、終わると自動で巻き戻してくれる。撮影も自動で出来るようになりました。今でも時折ありますが、電池が途中で切れたとかは変わらないようです。写真中央はカメラが完全に壊れ、フィルムが10年以上放置されたまま(蓋が壊れて、感光したのであきらめてそのままに。)、セットするとこんな感じの1枚です。写真右は110フィルムと呼ばれるものを使用する「ポケットカメラ」と呼ばれたカメラです。フィルムは細長で両端が丸いもの。
レンズ付きフィルム(れんずつきふぃるむ)

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昭和61年、富士写真フィルム(現:富士フィルムホールディングス)より「写ルンです」というレンズ付きフィルムが発売されました。フィルムの装填や取出しを行う事なく、撮影が終わると現像、プリント点にカメラごと渡し、現像したフィルムとプリントされた写真を渡される(カメラ本体はメーカーが回収。)という画期的なカメラである。「使い捨てカメラ」と一般的に呼ばれていますが、回収したカメラは点検したのち、リユースされています。
90年代、スナップ写真などでブームとなり、現在はバリエーションが少なくなりましたが、使われ続けています。
機械式計算機(きかいしきけいさんき)

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歯車などを用いた機械的要素を持つ計算機で、操作が容易で安価な電卓が普及し始めた20世紀後半まで活躍しました。写真左は大正時代に発売された「タイガー計算器」で、日本の代表的な機械式計算機です。中央はタイガー計算器のパンフレット。文言が素晴らしい。右は昭和34年に発売された「東芝計算機」。20桁の手動式計算機(試作)の改良型で、十進装置や連乗装置が追加装備、ワンハンドで対応する乗除算の自動切換え、自動早戻り、チェックダイアルを装備しています。家庭用というよりは企業用の計算機ですね。

電卓(でんたく)

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電卓とは正しくは「電子式卓上計算機」と言い、計算機の一つ。電子回路で計算を行い、卓上で使用できる又は小さいサイズをいいます。今や日常生活では身近なものとなっています。電卓は半導体の発展、歴史と共に歩んできたと言っても良い存在で、トランジスタからIC(集積回路)、ICからLSI(大きな集積回路)へと変化するのとほぼ同じくして進化してきました。
写真左は日本初の電卓。昭和39年に早川電機(現:シャープ)のCS-10A型です。現在とは異なり、各桁に1~9の数字が並ぶフルキー方式で、価格は535,000円(当時の電動機械式計算機が50万円台、自動車1台分とほぼ同じ。)でした。写真中央は東芝製BC-1001型、愛称は「トスカル」。10桁表示、回路はトランジスター、ダイオードを主体とし数千に及ぶ部品数で重量18kg、価格は360,000円。と、時代と共に低価格化、コンパクト化(軽量化)など私たちの生活に近づいていきました。そして写真右、昭和47年に発売されたカシオ製カシオミニです。電卓の価格破壊とパーソナル化を象徴する製品として記念すべき商品で、価格は12,800円!昭和50年には5,000円を切るようになり、個人でも電卓を持つことが出来るようになりました。この頃の青っぽい数字が懐かしいですね。電卓の発展は後に登場する電子辞書や携帯情報端末などの登場のきっかけともなります。
乾電池(かんでんち)

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身近な家電製品のリモコンや携帯電話、玩具など様々な所に使われるのが乾電池です。乾電池とは電解液を固体に染み込ませたもので、一回限りの使い捨てを一次電池、充電が可能なものを二次電池と言います。電解液をそのまま使う電池を湿電池と言い、車のバッテリーなどに見る事が出来ます。
乾電池は明治時代に登場します。上の写真はその頃の乾電池。今とは形状が随分と異なっていますね。現在では多くの乾電池が世界で決められた寸尺、電圧でつくられています。
ナショナル「Hi-TOP」

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写真左は懐中電灯の中にあった電池を入れる際のイラストで、ナショナル製「Hi-TOP(ハイトップ)」です。松下電器産業(現:パナソニック)が国産で初めてとなる完全金属外装とした「ナショナルハイパー乾電池」の後継として昭和38年に発売。マンガン電池で従来のものより2倍の寿命を実現し、大ヒット商品となりました。平成3年にマンガン電池の無水銀化で写真右のNEOシリーズに再編されています。因みに、電池下部のナショ文字の左右に「leak proof」と書かれていますが、これは初期のものです。後期は「long life」になっています。
日立ゴールド乾電池

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Tuboフォトオフィス様撮影

年代的には1980年代後期の頃のものでしょうか。日立マクセル製の乾電池の販売機です。90年代に行われた乾電池の水銀0使用化以前は縦デザインなので間違いないかな。と思います。かつては電器屋さんの傍らで様々なメーカーの乾電池自動販売機がありました。都市伝説的な話では電池の電気が自販機に吸い取られて、あまり長持ちしない。なんて言われていました。この自販機、100円玉しか使えないのに、乾電池の値段が…。
東芝キングパワー乾電池

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Tuboフォトオフィス様撮影

現在でも「キングパワー」のブランド名は商品としてあります。自立型のタイプで、据え置き型(脚がないもの)もあるようです。乾電池の思い出と言えば「時限爆弾」。物騒なものですが、ドラマのお話。時限爆弾のタイマーに目覚まし時計のようなものが有りますよね。で、解除する時にコード赤or青みたいな感じで、プチンと切る緊迫のシーン。あれって、時計の電池を抜けば止まるんじゃね?と思ったのは作者だけでしょうか。

ノーベル乾電池

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羽村工場長様撮影

なんか頭のよくなりそうな乾電池ですが、この電池は富士通の子会社であるFDK株式会社のかつての商品名です。東京芝浦電気(現:東芝)の乾電池製造分門を切り離し、東京電気化学工業株式会社として乾電池の生産を始めたのが始まりです。その後、富士通の子会社となります。昭和59年までノーベル乾電池(FUJI NOVEL)として販売されていました。その後は富士通乾電池として流通しています。昔、おじいちゃんがよく言っていましたね。「生きているうちに使うのは自分の頭、死んでから使うのはイワシの頭」って。
テープレコーダー(てーぷれこーだー)

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写真左は昭和25年に発売された東京通信工業(現:ソニー)製のテープレコーダー、右は同じく東京通信工業から発売された持ち運びの出来る肩掛け型テープ録音機です。
テープレコーダーというとドラマでは誘拐シーンで犯人との会話の録音や再生を思い出してしまいますねぇ。録音機は新聞記者がマイクを持って街頭インタビューするシーンを見た記憶があります。鉄道ファンでもSLの音を録音していたような気がします。

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カセット式のテープレコーダー。テレビでは何かしらの事件や事故の時に登場しました。母がテレビの歌謡曲を録音(テレビの前に置いて)し、内職をしながら聞いてましたねぇ。ウォークマンが個々に聞くものなら、ラジカセと同じく皆で聴くものに使っていました。
カセットテープ(カセットテープ)

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上の古いテープレコーダーに使われるテープはオープンリールテープと言い、取扱いを容易にしたものがカセットテープです。最近まではビデオ用のVHSカセットテープもありますね。まだ見るのでここでは主に音楽用として使われるカセットテープについて語りましょう。
音楽メディアで言えばレコードの次代にあたり、CDの先代になる存在。レコードやCDの曲を録音したなぁ。今のようにダウンロードやデータで短時間に別のメディア機器に移動はしない。曲の長さそのままを終わるまで聞きながら待つ、のんびりとしたものでしたね。カセットテープは30、46、60、80、96、120、140分だったかな、短いものから長いものまで様々な種類があったほか、ノーマル、ハイポジ、メタルのテープの強さだったかな、そんな種類もありました。今では見る機会も減りました。
時にはカセットテープの録音できる長さを間違ってしまったり、片面の最後で入りきらなかったりと色々な思い出があります。皆さんは最初に何をカセットテープに録音したか覚えていますか?作者は30年以上も前ですが、初めて買ったCDがゲームミュージックで、それをカセットに録音して、通学に聞いていました。今でもその曲をたまに聞いています。
ウォークマン(うぉーくまん)

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昭和54年に音楽を好む人々に衝撃を与えた革命的な存在。それがソニーから発売されたウォークマン1号機「TPS-L2」です。それ以前はラジカセといったやや大きめのものがありましたが、通勤などには不向きでした。このウォークマンの登場で、いつでもどこでも音楽を楽しむ事が出来るようになりました。この初代ウォークマンと言えば、おサルさんのコマーシャルを思い出す方もいるのでは。作者は平尾一平を思い出してしまいました。カセットテープを巻き戻すのに鉛筆などのペンを使ったりしたなぁ。
補聴器(ほちょうき)

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耳の不自由な方には欠かせないもので、現在ではパッと見た感じでは判らないものもあるそうです。写真のものは昭和のものでしょうか。補聴器は昭和24年に身体障害者福祉法が制定され、この法律に対応するため昭和23年に国産初の補聴器が小林理研製作所(現:リオン)から発売されたのが始まりになるそうです。

ゲーム&ウォッチ(げーむあんどうぉっち)

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コンピューターゲーム会社として知られる任天堂から昭和55年に発売された携帯型液晶ゲームです。現在あるカートリッジ交換機能は無く、そのゲーム1つだけでした。このため、何種類も持っているお金持ちの子がいましたね。違うゲームを持つ見知らぬ子とお友達になったりなど、昭和の子供が変化するアイテムの一つかもしれません。
ゲーム&ウオッチはゲームをしない時は時計として使用できるという事が名前の由来です。写真右下にあるものが初期の頃のスタイル。赤いボタンが左右1個ずつあり、左右にキャラクターを動かすシンプルなものでした。その後、ボタンが増えたり、液晶画面が2画面になるなどの変化があり、ゲームのルールも色々と変化しました。
作者は「ファイア」というゲームで遊んだなぁ。ビル火災という設定で、ビルから飛び降りてくる人(棒人間)を真下で受け、担架で3回バウンドをさせ(1回バウンドすると右に移動する。)、救急車に運ぶというもの。受け損ねて3回ミスをするとゲームオーバー。難易度、点数が高得点になると連続して落ちてくる上、速度が速くなる。後は液晶2画面のドンキーコングを買ってもらった。確か最後は、誤って踏んでしまい真っ二つになった気がする。この他に、オクトパス、ポパイなんてタイトルもありました。
8トラック(8とらっく)

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通称「8トラ(ハチトラ)」と呼ばれたカートリッジ式カセットテープです。2トラックのステレオチャンネルが4つあり、計8トラックの信号が録音されていたのでこの名前が付きました。昭和40年に登場。登場の背景には当時、一般的であったオープンリール式テープレコーダーは取扱いが限られ、不便でした。一方、昭和37年に登場したカセットテープは会話録音が主な目的で考えられていたため、音楽用のメディアとしてハチトラが考えられました。カーオーディオが本来の目的で、カラオケ装置、バスの車内放送などに用途が広がりました。商品はカセットテープと同じ。紙の包装紙にスライドで出し入れですね。
写真中央の「アポロン音楽工業」が懐かしい、この会社は後に「バンダイ・ミュージックエンタテイメント」になり、平成12年までありました。写真右はナショナル製の8トラ再生の出来るカラオケ装置。歌っている時によくいたずらしたような気が。
ベーシックマスター(べーしっくますたー)

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昭和53年に日立から発売された国内初の8ビットパソコン。形式はMB-6880というもの。それ以前はプリント基板に電子部品と入出力装置を付けただけの簡素なマイクロコンピューター(マイコン)(1980年代以降はパソコンと呼ばれるようになる。)の「ワンボードマイコン」や非常に高価なマイコンがありましたが、このベーシックマスターは家庭用テレビをモニターとして価格を抑え、個人や家庭用=パーソナルの商品としたものです。マイコンと呼ばれていた当時、「パーソナルコンピューター」として大々的に発売されました。当時はプログラムを雑誌などを参考にして打ち込み、花吹雪のようなものや操作すると何かが起こる。という今では味も素っ気も無い感じですが、当時は感動したものです。作者は貧乏な家だったので、当然お金持ちの家にいって見せてもらいました。
PC-8800シリーズ

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昭和56年に日本電気(NEC→日本電気ホームエレクトロニクス)から発売されたパーソナルコンピューターで、様々な周辺機器がつくられ、1980年代のパソコンの代名詞ともなりました。この頃になるとプログラムの投稿雑誌やコンテストなどが盛んに行われ、パソコン少年は半ズボンに白又はチェックのシャツ、銀縁めがねというイメージがあったなぁ。
PC-9800シリーズ

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昭和57年に日本電気から登場したパソコン製品。同社の8ビットパソコンPC-8000及びPC-8800を継承しつつ、高速化を図るため16ビットとしたものです。普及する約15年間、NECのパソコンの主力商品として製造販売が行われ、最盛期には国内シェア9割を超えました。私たちにパソコンを身近な存在としてくれたことは言うまでもないでしょう。パソコンゲームを友達の家でよく遊んだなぁ。時には徹夜という事もよくあった。

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この頃のパソコンというと、こんな感じでしたよね。本体の上にモニターが鎮座していました。ちょっと気になるものがあるけど、それは別の項で。

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パソコンに付随していたのがプリンター。主にプログラムなんかを印刷していました。用紙は両端に穴が開いたもので、セットが慣れないと大変。印刷するとニィー、ニィーやジー、ジーと甲高い音でインクリボンが左右にせわしなく動きました。このインクリボンも1回だけではなく、ひっくり返して2度3度と使いました。
ラップトップパソコン(らっぷとっぷぱそこん)

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最初に登場したパソコンは卓上型(デスクトップ)と言われ、持ち運びが出来ない据え置きのものでした。しかし、技術の進化に伴いパソコンを持ち運べるような時代が来ました。それがラップトップ型、ひざ上に乗せて使うパソコンです。コンピューターに折り畳みの蓋が設置され、その蓋がディスプレイの役割を兼ね、キーボードと一体化したパソコンです。写真左は東芝製T-3100型で昭和61年に登場。この製品は欧米向けで、右はT3100型をベースに日本語処理機能を搭載した日本初のJ-3100型で同じ昭和61年に登場しました。J-3100型は当時の価格で約70万円で発売されました。

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初期のラップトップパソコンは持ち運びが可能。といっても3~10kg近い重さがあり(上のラップトップパソコンは6.8kg)、そこそこの負担でした。しかし、技術の進捗で徐々に軽量化、小型化が進みました。そして、平成元年に世界初のノート型パソコンが東芝より発売されました。それが「Dynabook(ダイナブック)」です。約20万円という普及し易い価格はヒット商品となったようです。この頃になると会社でも見慣れたパソコンです。「會社の中で仕事をして、外回りは息抜き。」という昭和のサラリーマンの時代が終わったなぁ。と感じさせる一品でした。

ワードプロセッサー(わーどぷろせっさー)

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ワープロ」と呼ばれ、一時代を築いた昭和の名作です。欧米ではタイプライターが発明されていましたが、日本語はアルファベット以外に漢字やかなを使うため、タイプライターでは文字数が不足してしまいます。日本語用に和文タイプライターがありましたが、1000文字以上並んだ盤面から文字を探すなど、操作方法が難解だったそうです。
欧米では昭和39年にワープロが登場。日本語では「漢字の入力」という非常に難しい問題と複雑な文字の印刷を解決せねばならず、製品化が出来ませんでした。
この難しい問題を解決し、昭和53年に東芝で日本初のワープロJW-10(写真左)が発売されました。当時の価格で630万円という高級車が買えてしまうような値段です。その後、様々なメーカーが参入し、新しいワープロが出てきました。
作者とワープロの出会い高校生の時でした。写真中央のような機種で、大きい5インチフロッピーに、黒い背景に緑色の文字。現在のような学習機能はなく、漢字変換が大変でしたね。例えば「副都心線」と入力すると「吹くと新鮮」といった具合で出てきて、泣かされたなぁ。
昭和55年頃から日本語ワープロが次々と生まれ、昭和60年には価格も安価となり、私たちの生活に徐々に普及します。写真右は東芝製ワープロ「Rupo(ルポ)」、本体にキーボードとプリンター、液晶パネルが備えられ、レイアウトの表示が把握し易くなりました。作者もこのRupoを買いました。大きな液晶画面で、ワープロの他に「倉庫番」というゲームで遊べた機種です。

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写真左はナショナル製「Panaword」、2DDフロッピーディスクも懐かしいですが、インクリボンも忘れてはなりません。片面使用が基本ですが、高いので何度も繰り返し使った記憶がありますね。右はシャープから発売された「書院」というもの。こちらもなかなかのヒット作だったようです。
その後徐々に進化をし、当時のパソコンに匹敵する性能を持つようになります。しかし、パソコンもソフトやプリンターなどの周辺機器の進化が進んだため、平成12年に最後の機種が登場し、平成15年に全ての会社でワープロの製造が終了。パソコンのソフトやプリンタの高性能化に伴い、その姿を消していきました。
フロッピーディスク(ふろっぴーでぃすく)

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磁気ディスクの一つで、上記のパソコンやワープロで使用した。という記憶を持つ方も多いでしょう。日本工業規格(JIS)では「フレキシブルディスク」と言います。因みにフロッピーの読み書きをする機器をフロッピーディスクドライブ(FDD)(JIS:フレキシブルディスクカートリッジ)と言います。
「フロッピー」とは柔らかい(フニャフニャした感じ。)という意味で、写真左の8インチ(約200㎜)フロッピーディスクは初期のもので、薄いディスクと薄い保護ケースで包んだもので、柔らかい事から命名されたそうです。在来の硬い磁気ディスクはハードディスク、ハードドライブと呼ばれるようになりました。
皆さんがフロッピーというと写真中央の3.5インチ(約90㎜)サイズを思い出すでしょう。パソコンやワープロでお世話になりました。この頃は容量というものが理解できず、書き込みが出来なくなったりしましたね。また、最初から不良品だった。という事もありました。フロッピーディスクの特徴はプロテクト機能。要するに書き込み禁止が出来る機能で、写真右のようにフロッピーディスクを裏返すと、右隅に上下にスライドする部分があり、ここの操作で出来ました。しかし、忘れていたりと間違えて、ウキャア!!と発狂した事も懐かしい思い出です。ディスクだけに、最後は投げ飛ばした人もいましたね。
腕コン(うでこん)

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昭和59年にセイコーから発売された、世界初コンピューター付腕時計。こんなものも昭和にあったのですね。2000文字のメモ機能、電卓、スケジュール機能などを持っており、無線転送で右のプリンター付機器と情報をやり取りできたようです。