京阪神地区では古くより国鉄と民鉄各社との激しい競争が繰り広げられてきました。東海道本線及び山陽本線では「新快速」が運行されており、昭和47年より113系に代わって、新幹線開業で余剰となった153系急行形電車が就任しました。冷房装置が搭載され、空気ばね台車の乗心地の良さは評判でしたが、ボックスシートで片側2扉構造は混雑時間帯の輸送には不向きな一面もありました。また、老朽化や陳腐化も目立ち始めた頃の登場であったため、並行する私鉄各線で転換式クロスシート車などが投入されるとあっという間に見劣りするものとなってしまいました。
そこで国鉄では昭和54年に117系を登場させます。この117系は国鉄車輛の歴史に大きく名を残すものとなります。
客室設備は昭和50年に北九州地区に登場したキハ67系をお手本とし、急行形車輛を上回る設備を持つ車輛として設計されました。従来は広域転配を考え、地域の事情等を考えない「標準化設計」でしたが、初めて地域の事情に応じた設計を行いました。
車体は鋼製で片側2扉構造とし、戸袋窓部を除いて二段上昇式の窓を2セットずつ1組としたユニット窓を配しました。先頭部も独特のスタイル。鼻筋の通った流線形構造で、運転台下部に前部標識灯を左右2灯ずつ配し、中央には愛称表示器を設置しました。塗装はクリーム色(クリーム1号)をベースに茶色(ぶどう色2号)の帯を巻いたものです。この塗装は就任する「新快速」の前身となる「急行電車」に活躍したモハ52系などで採用された、大阪鉄道管理局の伝統的な塗装で、本来であるならば、電気方式によって塗装が定められていましたが、そのルールに従わず、伝統色を選択した、いわゆる地域色を採用した例であり、今日の地域色の先駆けとも言われています。
153系に代わり、新快速に就任。153系時代には「ブルーライナー」(灰色9号の車体に青22号(スカイブルー)の帯が入れられていた事から。)に対し、「シティーライナー」という新しい愛称で活躍しました。昭和57年からは中京地区の快速に活躍する153系の置換えとして、「東海ライナー」という愛称で活躍しました。